経済において買い物は代表的な経済的行動であり消費とも言われます。買い物は誰にとっても楽しいものです。誰に批判されるようなことでもありません。人が社会の中で生活すれば何かを消費しなくてはなりませんし不可欠なことです。
お金を所有していたとしても、それを使うことができないのであれば何も嬉しくはありません。買い物をすることの意味は、所有しているお金を自分に有用なモノやサービスと交換するということです。買い物の楽しさは買ったモノやサービスによって自分が受けることのできる効用が増えるであろうという期待から来ています。
経済が発展するにつれて消費が活発化してゆくと、消費自体が目的化したり嗜好的な消費も増えてきます。問題はこうした消費の肥大化と人々の幸福な生活の関係において、次第に整合性が失われてゆくことにあります。
消費主義とは
消費主義(Consumerism)は文脈によって異なった意味を持つのですが、ここではとりあえず資本主義社会の大量消費を奨励する社会的風潮を指すものとしましょう。
より多くのもの、より高性能なもの、より高級なもの、資本主義社会ではその発展に伴ってより高付加価値な商品が生産されるようになりました。こうした多様で活動的な市場の成立は資本主義の成果ともされ、イデオロギー的な勝利の裏付けとして語られてきました。
経済発展が実際に私たちの暮らしの内容を豊かにしてきたことは事実です。人類の歴史においてモノが欠乏する時代はほぼ定常的に続いてきました。そうした状態に比べればモノに溢れた社会は望ましいとされても不思議はないでしょう。
経済発展はまず生産側の拡大によって実現されてきました。しかし生産は最終的に市場において消費と交換されない限り経済としての実像的な意味を持つことはありません。この増え続ける生産余剰への附随的対応として消費を美徳として奨励する社会的な風潮が生まれてきました。これを消費主義と言っています。
消費主義により買い物は娯楽化し、個人の価値観として所有欲を満たすことが肯定的に捉えられるようになりました。より多くのものを買い、より高付加価値のものを所有する。消費は社会的ステイタスを示し、幸福は多くを消費できることと同義となっていったのです。
マクロ経済と消費主義
資本主義経済では成長することが当然とされ、成長を前提とした政策や多くの経済理論が組み立てられています。しかしここで疑問となるのは、いつまでも膨れ上がる生産余剰を消費主義によってどこまで消化してゆくことができるのでしょうか。
欲望の限界
資本主義はいつしか人々の欲望によって駆動されるものとして表現されるようになりました。これは消費主義の隆盛によって経済成長を是認的に捉えようとする心理的な反応でもあるでしょう。際限のない成長のためには人々の際限のない欲望が必要となったのです。
この欲望の肥大はある程度まではうまく人間の性質に適応し、経済的にも良好な結果として稼働したと言えるでしょう。しかし欲望の拡大は次第にいくつかの矛盾を産むことになります。
より新しいもの、より優れたものを所有したいという欲望は、次々に生み出される新しい製品などに対応したものです。もちろんただ新しいという付加価値だけではその価値を正当化するに足りません。
常に何かしらの新しい価値がないといずれ新製品購入のサイクルが回らないのです。しかし新しい価値は次第に生み出すことが困難になり、費用対効果が落ちてゆきます。これは効用逓増効果と言われる効用あたりの投資額が加速度的な増大が起こるからです。
また資本家と消費者では欲望の性質が異なり、欲望自体と貨幣の偏在が起こるようになりました。資本家は資本を投入し、その資本からの利益を得るという生産側の欲望を持ち、消費者は消費余剰を求めて消費側の欲望を持ちます。
資本家などによる消費しきれない所得は貨幣の滞留を生み、片方では消費をしたくても所得が限られるため思うように消費ができない多数の消費者が生まれました。
このように欲望による経済循環は本質的な限界があり、この限界が次第に顕在化しつつあるのが現状ではないかと思われます。
広告の限界
消費主義は経済現象の説明でしかありません。現実の経済社会において消費主義な思考を拡散し実現化する役割はほとんど広告産業が果たしています。華やかで前向きな広告はそれ自体が資本主義社会を象徴するものであり、私たちの考え方や価値観の基盤となって大きな指針となっているとも言えるでしょう。
広告を単なる購買を促す情報の流通だと考えると、その本質的な必要量に比べて明らかに量的にも質的にも過剰になっていることに気づくでしょう。広告産業は情報流通メディアを独占し、コンテンツの内容にも大きな影響を与えるまでに成長してきました。
広告産業の進展とともに広告は社会の中で氾濫するようになり、その効果が疑われることが次第に増えてきました。価値観の多様化やリテラシーの高度化によって広告の社会への影響力も低下しつつあります。
また新しい些細な付加価値を大げさに強調する傾向が消費者に見透かされ、広告への信頼性は一段と低下してゆきました。
マーケティング手法の高度化やターゲティング広告などの技術的な進化もありましたが、広告への信頼性が回復するまでにはなっておらず、口コミ広告などの流行も一般の広告への不信から生まれたと言っても良いでしょう。
かつてのようにむやみに購買を煽る手法や、偏った価値観を押し付ける手法はもはや消費者の共感を呼ぶことはなくなりつつあり、大規模で集中的な広告は消費者からはむしろ製品の割高感を判断する指標となっています。
つまり消費主義プロパガンダを支えていた広告は成熟した消費者に対して効果を持たなくなりつつあり、特に情報リテラシーの高い新しい世代の消費者へは逆効果にもなりつつあります。
消費主義からの脱却
古い経済学では経済の発展は生産性を向上することで成されると考えられていました。供給さえ増やせば需要は従属的に付いてくるものだったからです。実際に前世紀においては消費主義の喧伝によって消費を膨張させれば旺盛な需要が自発的に発生し、物価や金利の上昇を適切な程度に保つことに専念できました。
ところが経済が成熟し、人々の欲求が基本的に満たされるようになると消費主義への反応が鈍くなります。また人間の心理的にも成就されることのない過大な欲望をいつまでも抱え続けることは難しく、欲求を現実的な程度に抑えようとするのが自然です。
さらに現実的には物理的な制約や資源量が限られることなどから、高付加価値な商品は自ずと高価になってしまい対価となるお金を容易することが難しくなります。つまり消費主義の影響によってより高付加価値の商品が欲しくなったとしても可処分性が折り合わなくなり、人々は自分が本当に必要とするモノが何かを考え直すことになるでしょう。
価値観の多様性などがあったとしても人間の本質が無限に増大するわけではありません。身体的な限界からは逃れられず、消費には量的にも質的にも自ずと限界があります。
そして広告への不信は消費への洗脳的な動機を減退させることになり、このような限界の露呈とあわせて、結果として消費主義からの脱却を果たす人々が増えることになるでしょう。
消費者の自由意志による選択は自由な市場経済の成立には不可欠なものですが、自由な意思による消費は人々が必要とするものの総量を超えることはありません。本当に必要なものの効率的な市場はおそらく人々の幸福に大きな寄与をすることになるだろうと信じたいと思います。
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