豊かな生活と聞くとどんな生活を思い浮かべるでしょうか。たしかに金銭的に恵まれない貧困生活のことではありません。ここで提案したい豊かな生活はむしろ倹約的な生活であり、とてもシンプルな生活であり、自発的に選択された質素な生活のことです。
質素な生活は決して誰しもが目指すような目標には見えないかもしれませんが、自分の人生を本当に豊かなものにしようとするのであれば、いずれ生活はシンプルになってゆくものだと思います。
欲望を管理する
あれも欲しいこれも欲しい、あれをしたい、これを食べたい、etc。私たちは生きていればいろいろな欲求を持つものです。モノや娯楽に関するものだけではなく自分の健康や対人関係に関することにも希望や期待を持ってしまいます。
たいていの人はこうした希望や欲求を目についたものから一つ一つ実現してゆこうとします。それは自然なことであり、そうした行動の連続が生きていくことだと考える人もいるでしょう。
問題になるのは、私たちの持つ希望や欲求を全て叶えることはできない、という厳然な現実があることです。
これは私たちの身体が一つであり、使用できる資源が有限であり、発揮できる体力や能力に限界があり、他者や社会に及ぼせる影響も些細なものであり、なにより生きている時間も限られている以上は避けようもないことだからです。
等価交換の世界
現代の経済社会ではもう一つの厳しい現実があります。それは何かを手に入れたらたいてい他の何かを失っていることを意味するということです。
経済の基本は取引です。何かを買えば少なくともその分のお金を失います。そしてそのお金を稼ぐための時間を失ったことも意味します。しかも客観的に言えばその売買で誰かが得をしたとは言えません。
あなたが八百屋で100円の大根を買ったとします。あなたは大根は120円の価値があると思うから買うのですが、八百屋は80円で仕入れられたから100円で売るわけです。あなたの主観では20円の得しますが、八百屋の主観ではあなたは20円の損をしています。第三者の視点からみればどちらが得をしたという話にもなりません。
これはあなたがどこかで働いてお金を得る場合でも同じです。あなたは仕事をしたらなぜかお金がもらえるから働いているだけです。社長から見ればなぜか安月給で働いてくれるからあなたを雇っているだけでしょう。
もしあなたが取引で得だけした気分でいたいのなら自分の主観だけで生きることに専念することです。くだらない話に思われるかもしれませんが、実はこれは案外に重要な示唆でもあります。
またこれは金銭による売買だけの話ではありません。誰かから贈り物をもらったり、何かを手伝ってもらったりしたとしても、お返しをする道義的な義務を負います。何かをもらうためには与えなくてはならないのです。
さらにモノであれば、手に入れたモノを管理する手間や時間、保管スペースを確保する必要が出てきます。あなたの身の回りにはガラクタが満ち溢れてはいないでしょうか。
要するに一方的に得をし続けるようなことはほとんど起こりませんし、その得も自分の主観にしかないということです。そして何かを得ても常に片方で他の何かを失っており、そうならざるを得ない現実の中で私たちは生きているというわけです。
喜びを見積もる
ではこうした現実の中で豊かに生きる方法はないのでしょうか。
まず思いつくのは、自分たちの希望や欲求に優先順位をつけるということでしょう。もちろんこれは誰しもが普段やっていることです。優先度の高いものから順に解消してゆくというやり方です。
世の中が単純であったとき、関わりを持つ人が少数であったとき、大量のモノに囲まれていないときはこれでも十分にうまくいったのかもしれません。しかし現代社会に生きる私たちはもう少しこの優先順位のつけ方に工夫をし、精度を高める必要があります。
まず優先順位をつけるときの基準から考えてみましょう。まず欲求の緊急性だけで決めるべきではないことは明らかです。(もちろんトイレに行きたいときは行ってください。)
そもそも私たちが欲求を持つのはその欲求が満たされたときに喜びを感じるからです。また満たされない場合のフラストレーションや痛みを感じたくないからという場合もあるでしょう。
だとすれば欲求が解消されたときに感じる喜びの大きさを基準に取り入れるのはどうでしょうか。しかし喜びの大きさは欲求が満たされてみなければわかりません。
この場合はあらかじめ自分が感じる喜びの大きさを見積もっておかねばなりません。それも自分自身で行う必要があります。自分が何にどう喜びを感じるかは自分にしかわからないことだからです。
なんだかよくわからない話だと思いますか、話を整理しましょう。私たちは生きてゆく上で様々な欲求を抱えていますが、それを全て満たすことはできないでいます。この現実からは逃れられませんが、ではせめてできるだけ多くの欲求を満たす方法を探そうとしています。
ただ満たされる欲求の数だけを増やすことにはあまり意味がないかもしれません。欲求の解消にはそれぞれ異なった大きさの喜びに繋がっているからです。むしろこの喜びの総量をできるだけ大きくすれば、より豊かな生き方になるはずです。
そのためには喜びの大きさをあらかじめ見積もるという作業が不可欠だろうという話です。
コストを見積もる
さらに話がややこしくなりますが、それぞれの欲求を満たすためにはそれぞれに何らかの代償を払う必要があります。何かを得るときには必ず失うものがあるからです。
金銭自体もそうですが、その金銭を得るための労力と時間、そして直接的に欲求を満たすための行動や努力などがあり、こうしたものとの交換でしか私たちの持つ欲求は解消されることはありません。これをコストと呼ぶことにしましょう。
あなたが特別な資産家でないかぎり、コストも無尽蔵に使えるわけではありません。あなたが働いて得たお金もあなたの時間や労力などのコストを支払って得たものになります。つまりどんな人にも消費できるコストには上限があります。
そしてこのコストもそれぞれの欲求ごとに異なった大きさがあるでしょう。ラーメンを食べたければラーメン代を支払う必要がありますし、試験に受かりたければ必要な勉強をする必要があります。
そして使えるコストが限られた中で、喜びの総量を最大にするように優先順位を決めなくてはなりません。つまり必要なコストが高い割に得られる喜びが少ない欲求であれば優先順位を下げ、コストに対して喜びが大きい欲求であれば順位を上げればよいということになります。
コストを見積もるのは喜びを見積もるよりも簡単です。おおよその金額か時間に換算できるからです。もちろん対人的な関係や自分の健康などコストを算出しにくいものもあります。
理屈から考えるのであれば、これで理想的な優先順位にはなるはずです。もちろん現実的に運用するのはかなり困難ではあるでしょう。喜びを定量化してゆく作業はそれなりに経験が必要だからです。自分の感情を客観的な視点から常に観察する必要があります。
それでも時間をかければ自分がどういうことに喜びを感じ、あるいは感じないのかという傾向は見えてくるはずです。そしてそれに慣れてくれば優先順位がそれほど変動しなくなります。そして優先順位の安定化こそが生活をシンプルにし、豊かに生きるためのコツということになります。
煩悩を減らす
煩悩は仏教用語なのだと思いますが、私たちが自然に持っている欲求のことを言っているのでしょう。欲求というのは次から次に際限なく湧き出てくるものです。仏教では元から断つようなイメージになるようですが、ここでは欲求を減らすことについて考えてみましょう。
というのは欲求が次々に湧き出てくるために、おそらく多くの人は優先順位をつけようとしても眼の前の欲求に翻弄されてしまい、その順番をつけるようなことはできないし、自分が持っている欲求がどの程度あるのかさえ自覚できなくなっているのではないでしょうか。
これでは自分の喜びを見積もるどころではないですし、仮に優先順位をつけたとしても常に順位が変動し続けるようなものでは混乱が増すだけになるでしょう。
ですから、まず欲求の内容がリストアップできる程度までには落ち着いた状態になる必要があります。そのために一時的にでも欲求を減らすことをしなくてはなりません。
安定した欲求の優先順位がつけられるという状態になったとしても、新たに欲求が生まれてこないわけではありません。ただたいていの欲求はリストの遥か下方に落ちてゆき、いつのまにか忘れ去られることになります。
優先順位とは言っていますが、順番の内容を意識しているわけではありません。自分が本当に求めているものが明確になっている中で、コストの基準だけがあり、新たな欲求はその基準をもとに評価されて位置づけられます。
「自分にとって本当に必要なもの」が見えてくると、コストの見積もりもそれに対応する評価になってゆき、湧き出てくる欲求に対してもほとんど場合は厳しい評価を下せるようになります。
禁欲というとひたすら我慢するような苦行のように感じられるかもしれませんが、少し違います。安定した優先順位をつけられるようになるまでは、ある程度意識的に欲求を制限してみましょう。生理的な欲求は仕方がありませんけども、最初は自分の欲求を否定することに慣れることです。
頭ごなしに欲求を否定してしまうとフラストレーションが溜まってしまいますが、こうした不満の解消や正当化にも慣れというものがあり、うまくすれば意識しないうちに解消してしまうこともできるようになります。
湧き出てくる欲求の多くは少し保留しておくぐらいでも消散してしまいますし、意識的に欲求を否定しているので、自分自身と交渉するうちに自分の欲求の性質についての理解が進むと思います。もちろん溜めすぎは健康のためにもよくありませんのでコントロールを覚えてください。
そしてそうした中でリストに載り続けている欲求に対して評価をして、優先順位をつけてみてください。重要なのは順序ではなくて、自分自身が感じるであろう喜びの大きさと限られたコストの使い方とのバランスを見ることです。
諦めることの効用
諦めるというと、ずいぶん後ろ向きな発想のようにも感じるかもしれませんが、コストが限られているという状況の中ではいずれにしろ全ての欲求には応えられません。優先順位に従って意識的に諦めるという選択ができるようになれば、豊かな生活に向けての一助になるはずです。
コストに関しては使える資産を増やすなどの方法も考えるべきではないかと思われる方もいるでしょうが、資産や所得を得るにしてもリスクか時間かはわかりませんが、結局は何かしらと引き換えでなければ得られないことは理解しておくべきです。
特にコストの大きすぎる欲求に関しては諦めることを少し優先して検討するべきです。例えばプロ野球選手になりたいという夢を抱いて、青春時代を野球にうちこむというようなことは仮に成就しなかったとしても人生において本当に素晴らしいことではあるのですが、やはりそこで失うものもかなり大きいということも事実としてあります。
もちろん諦めれば良いと言っているわけではありません。希望や欲求は時とともに変わります。価値観の変化でも変わります。欲求の内容や大きさも変わりますし状況の変化によっても変わります。そうしたすぐに変わってしまう一つの欲求にこだわらなければならない理由はないと考えましょう。
諦めた希望や欲求はすぐに簡単に割り切れるものではないことも多いですが、いずれにしろ失った選択があったからこそ代わりに得られた選択が出てくるのだと思います。
質素な生活=豊かな生活
こうして自分の希望や欲求を管理してゆけば、自分にとって必要で大切なモノや人が明確になります。絶え間なく湧き出す欲求にも対処ができるようになり、時間や環境が多少変化したとしても自分を見失うことはなくなります。
欲求を満たすためのコストに余裕が生まれ、コストをかけて満たす欲求を選択できるようにもなります。また自分に必要なものがわかれば、自分にそれほど必要でないものもわかります。
結果的に生活がシンプルになってゆき、見かけとしては質素で慎ましい生活になるのかもしれません。
しかし欲望を管理できるようになりさえすれば、欲望を満たすためのコスト効率がよくなり、それによって感じる喜びも大きなものになります。
つまり内面的に本当に豊かな生活になるというわけです。
コメント