”生産性向上が豊かな社会を築く”のウソ

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経済の先行きに不安が出てくるたびに出てくる話題として「生産性」があります。経済活動を上向かせるための手段として生産性を向上させて豊かな社会を目指そうというような話です。話の順序を変えて、人口減少下の社会においても生産性を向上させることができれば豊かになれるのだというようなストーリーとして語られます。

しかしこの生産性をめぐる議論はどれだけ信憑性があるのでしょうか、本当に生産性を上げれば豊かな社会にたどり着けるのでしょうか。今回はこの生産性について少し考えてみたいと思います。

生産性とは何か

生産性(Productivity)は経済学で定義される用語であり、単位投入に対しての産出量とされます。極めて単純で明快な定義ではあるのですが、「生産性」を現実の経済社会を考えるモノサシとして使おうとすると、とたんに話が混乱してきます。

これは生産性が経済の指標でしかないという事実がうまく理解されておらず、誤解が広がっているからでしょう。一般的に「私達の社会はかつて貧しかった状態から次第に豊かになった」という歴史的な認識があり、この間の変化を大抵の場合「生産性の向上」を使って説明されます。

生産性の向上が豊かさに寄与した、という論理はそれ自体は誤りではありませんが、実質的な意味を持つものではありません。たとえるとすれば生産性は学業におけるテストの点数のようなものだからです。成績が上がったことはテストの点数が上がったことでわかりますが、テストの点数が成績の向上に寄与したと言われても、それはそうだねとしか答えられません。当然ですがテストの点数を書き換えれば頭が良くなるという話にもなりません。

また学業のテストであればどこの学習が足りていなかったかはわかりますが、生産性では実際の豊かさのためにどういう生産性を上げればいいのか不明であることが多いのです。これは生産の増加を生産性の向上として説明しているわけですが、その内部の因果関係まで含めた説明にはあまりなってないからです。

誤解がないように言えば、生産性の向上が豊かさに寄与していないと主張したいわけではありません。生産性は経済的現象を説明するためのものと考えたほうがよく、意図をもって操作する対象とするにはあまりにも曖昧で要素が複雑に絡み合ったものなのです。

豊かさの指標

ここで豊かさについても考えてみましょう。通常、私たちの社会の豊かさは一般的にGDPもしくは一人あたりのGDPによって測られることが多いです。GDPは付加価値の総量であり、一人あたりのGDPは一人が生み出した付加価値を示します。これは生み出せる付加価値が多いほど豊かだという前提に立っていることになります。

また意識しておきたいのは、ここで言う豊かさは金銭的価値のみで測ったものであって、豊かさとして通常イメージされる金銭で置き換えられない文化的なもの、知識的なもの、抽象的な豊かさなどはほとんど算入されていないということです。

生産性は社会が大量のモノをいかに効率よく生産しているか、という観点から経済を評価したものであり、この生産性の向上によって目指すとされる「豊かな社会」は言ってみれば生産物の金銭的価値を最大化することを目的とした社会です。

こうした生産性と付加価値に着目した考え方は、モノがない時代にはそれなりの必然性をもっていました。人間の歴史の大半の期間ではインフレギャップとよばれる需要のほうが多い状態でしたから、生産性を経済的豊かさと結びつける発想は自然なものであったのかもしれません。

ところが現代の飽食の時代を経験し、需要不足の状態であるデフレギャップ下の社会では物量が必ずしも豊かさに直結するわけではないと考える人が多くなっています。

経済学においても生産性は経済の状態を示す指標としては使っても、生産性の向上だけを目的化したような議論は少ないでしょう。基本的に経済学は資源の効率的な利用を探求するもので、あくまでその手段として生産性を取り扱います。古典的な経済学でも限界効用を導入し生産の量的な上限は強く意識されていました。

もちろんよくある「生産性を上げようという話」の趣旨はやたらと大量のモノを作ろうとするものではないでしょうが、生産性向上のための手段としてあげられる技術革新や新しいテクノロジーの導入、人的資本投資、インフラの整備などはすべて最終的に生産量の増大につなげるための手段になっています。

もし生産量が増えることが売上の増加とイコールであり、売上の増加がそのまま利潤の増加を意味し、こうして達成された所得の増加が社会の豊かさになるのだ、と誰もが納得できるのであれば、生産性の向上を優先事項にすることにも一定の合理性があるのかもしれません。

実際には、とにかくモノを多く作れば豊かになれた時代においては正当な考え方であった生産性の向上という術が、その本質が見失われたまま需要不足の社会においてもなお経済を改善するための手段として叫ばれているように見えます。

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生産性向上が導く社会

生産性に関してはその本質的なところの誤解もさることながら、それ以前の問題として様々な誤った解釈、派生的な誤解、意図的な曲解などがあると思います。

企業においての生産性

個別の企業や単一の工場などに対して生産性を考えることはよくあることでしょう。こうした場合は売上や出荷額を増大させるための手段として生産性の向上に注目します。そしてこの生産性を向上させるために、生産に関わる要素の改善ではなく投入量そのものを減らす操作が行われることがあります。

同じ量の生産をするのに投入量がより少なくすめば生産性は上がったと言えるからです。これ自体は誤りではありませんが、産出される生産量が変わらないことに加えて、そこで投入されている原材料などは仕入先にとっての生産物なので、個々で投入を減らしてしまうことは全体としては生産が減ることになります。

コストカットや人件費削減などの経営方針は確かに単体で見た場合の生産性の向上には寄与しますが、マクロ的な生産性や付加価値の増加につなげるのは非常に困難であり、仮に達成したとしてもかなり迂遠な努力になってしまうでしょう。

労働者から見た生産性

労働者が生産性の向上に寄与する手段として、新しいスキルや技術の習得、特定技能に習熟することなどがあげられます。もちろんこうした手段は正当なものであり一般的でもあるのですが、生産性に対する影響の大きさを考慮すると、生産要素としての立ち振まいのほうが重要かもしれません。

というのは労働者は労働力を供給する立場であるため、生産に対しては常に投入される側になるのです。ここで生産性を向上させるとなった場合、労働者は投入された生産からの退出、あるいは労働供給量を絞るという手段で貢献することになります。話としては簡単に聞こえるかもしれませんが現実的には非常に難しい行動を要求されていると言えるかもしれません。

たとえば人力で行っていた生産の機械化やロボットへの置き換えは、これにかかる設備投資費が人件費を下回る場合や生産性が向上する見込みがある場合に行われます。こうした省人化によって生産コストが下がり、結果として生産性が上がります。5人で従事していた仕事を4人で行うような人員削減も同じような効果があります。

つまり省人化によって労働力が投入されなくなることによって労働者は生産性の向上に寄与できるというわけです。もちろん退出することになった労働者本人にとっては職を失ったり配置転換されたりするという意味になるわけで、生産性の向上は労働者にとっては負担であることのほうが多いでしょう。

また個々人で多少の違いがあるにしても人間の能力とその向上には限界があります。機械化などの設備投資による生産性向上には全く及ばない業種や業務も多いでしょう。経済全体の生産性の向上はおそらく労働者のスキルアップよりも省人化などのコストカットによって実現されることになるでしょう。

ところで現状の生産性に関しての労働供給をめぐる議論には多少混乱があると思います。労働人口が当面減少を続けることが予想されるなか、近年は女性の就労や定年年齢の見直し、パートタイム労働などの多様な就業形態の整備、実質的な移民政策など様々な施策が行われてきました。基本的に労働人口を維持し、労働供給を増やすことを主眼としたものばかりです。

しかし労働供給を増やすことは基本的には生産性を落とします。生産性は量的な概念と言うよりどちらかと言えば生産効率なのであり、労働力依存の大きい生産の効率は一般的に低いからです。

もちろん生産が行えなくなるほど労働者がいないのであれば問題ですが、現在の人手不足は本来投入されるべき賃金をカットしすぎたからで、これは個別で経費削減という生産性の向上を図った結果である可能性があります。

人手不足の対策を要望しながら片方で生産性の向上を主張するのは、どこかで矛盾があると考えるほうがいいでしょう。売上の維持と利益率の拡大は両立しないわけではないですが、複合させた主張としては整合性に欠けています。

ところで、ここで言われている豊かな社会というのはいったい誰にとっての豊かな社会なのかを私たちはもっと考えるべきです。生産性を上げようという主張は広く呼びかけられている話なのですから、経営者だけにとっての豊かな社会などではなく、一般の大衆にとって豊かな社会でなければなりません。

と言うのは、経営者から見ると賃金という投入をした以上、より多くの労働力の供給がなされることが生産性の高い労働だという話にしたくなるかもしれません。一方で労働者から見ると賃金が変わらないのであれば、より少ない投入(労働力供給)にするほうが生産性の高い働き方ということになります。

つまり生産性の向上によって豊かな社会になるにしても、どこに視点や目的を置くかによって内容は変わるのです。一般大衆でもある多くの労働者の立場から見た場合、自分たちの豊かさを犠牲にするほどの労働力の供給は、豊かな社会という目的に対しては本末転倒になります。

たとえば経営者から生産性を上げるように命じられた労働者は労働の頻度や内容を強化したりするかもしれません。つまりより多く働いて多くの成果を上げるようにするわけです。長時間働いたり、残業を増やしたり、より労力のかかる仕事を増やしたりするのかもしれません。

しかしこうしたことはすべて労働力の投入量を増やす行為であって、仮に生産高は増えたとしてもおそらく生産性自体は下がることになります。

すくなくとも働く人にとって生産性の高い仕事というのは自らの豊かさに対して効率的に働くことではないでしょうか。豊かさを増やすためにライフワークバランスを意識した働き方を選ぶべきでしょう。

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消費者にとっての生産性

消費者から見て生産性の向上のメリットがあるとしたらどのようなものがあるでしょうか。おそらく最も可能性のありそうなのは、生産性が上がることにより製品が大量に生産され、必要なものが安く供給されるということになるのでしょう。

消費者のもとに安価に大量のモノやサービスが供給されるとしたら、確かにそれは豊かな社会と言ってもいいでしょう。おそらく飽食の時代からデフレ期に至るまでは供給される物量の多さが物価の低下を招き、消費者にとっての豊かな社会が実現したということは事実ではあるのでしょう。

しかし同様なことがこれからも引き続き起こるのでしょうか。いくつかの疑問が沸き起こります。まず現在の生産者はデフレ経済に懲りているでしょうし、またこれから物価の上昇と人件費の高騰が予想されるとします。

そうした上で生産性の向上を目指した経営がなされるわけですが、おそらく生産者としては生産量自体はあまり増やさずに付加価値生産性の高い製品やサービスなどに生産をシフトし、利潤を優先的に確保しようとするでしょう。

つまり消費者から見ると商品の価格は変わらないか、もしくは少し上がることになるでしょう。価格が下がらないのであれば生産の過程でいかに生産性の向上が達成されていたとしても、消費者としては何のメリットもないということになります。

さらに、生産性の向上の過程においては、材料費のコストカット、加工などの簡略化、ステルス値上げなど最低限の機能や性能を確保し、消費者が意識しない範囲での製品の品質の低減、耐久性などの低下などといった現象が増えるでしょう。

またカスタマーサービスの省人化や保障内容の削減など利用率の低い顧客向けのサービスが廃止されたり、マニュアルの整備や補修部品の在庫など消費者対応が低減されるようなことも行われる可能性があります。

さらに、生産性の向上の論理だけが優先された場合、おそらく多品種少量生産などが否定される流れになってゆくでしょう。多様な需要に対応するための多品種展開ですが、その高いコストが利益に見合わないと判断されれば、あっさりと合理化され展開数が絞られたりすることになります。

消費者から見ると選択肢が絞られ、細かいニーズには対応してもらえなくなるというわけです。おそらく消費者にとって生産者の生産性の向上は基本的に不利益になることのほうが多くなるでしょう。

富裕層と生産性

ここでもう一度、豊かな社会について考えましょう。生産性向上が導く豊かな社会では人々は豊かな生活をしているのかもしれません。豊かな生活と言えば現状で思い浮かぶのは富裕層の生活ではないでしょうか。

一概に富裕層と言っても事業家の多くは忙しくしているのでしょうし、慎ましい生活をしているお金持ちも多いのでしょうが、豊かな生活のイメージを描くためにとりあえず富裕層の裕福な生活を想像してみるわけです。

大きな邸宅、プール、高級車、宝飾品、絵画、パーティー、海外旅行、プライベートジェット、バカンス等々、たしかにいろいろと思い浮かびます。当然かもしれませんが共通するのはお金のかかるということです。また富裕層は必要なものを必要なだけ買うことができ、選択肢も多くあるという生活です。

消費は生産とは対極にある概念ですから消費に対して生産性という言葉はあまり使いません。コストに対する効用の比率という意味で「生産性」あるいは「効用性」を使うとすると、大邸宅や高級車などは一般的にそのコストに見合う効用性はないと言えます。つまり裕福な生活の生産性は低いのです。

私たちはどこかで裕福な生活に憧れを持っているのでしょうが、生産性という尺度においてはこうした生産性の低い生活こそを望んでいるのです。いずれにせよ豊かな社会としてイメージされる生活はどう見ても生産性の向上が導く社会とはかけ離れています。

そもそも私たちが享受する豊かさは金銭的価値で換算できるものばかりではありません、対人関係や文化、知識、自然環境や人間的な生活。なにより健康と大切な時間。人によっても異なるでしょうし年齢によっても変わってくるでしょう。金銭的価値で測ろうとすれば無駄でしかないようなものもたくさんあるはずです。

多くの人は労働者として働くわけですが、生産性を上げるとなると、まず賃金を抑えられます、長時間働かされたり、スキルアップを強要されたり、リストラされたりします。また消費者として生活する上では生産性が上がることによって、商品の実質的な品質が下がったり、選択肢を奪われたりします。

金銭的価値で換算できないものを含めた豊かさが、生産性の向上によってもたらされることもあるのかもしれませんが、失われるもののほうがはるかに多くはないでしょうか。もっと言うのであれば、豊かな社会を目指すのに生産性の向上は手段としてはたして適切なのでしょうか。

まだ”生産性向上が豊かな社会を築く”は本当だと思いますか?

資本家と生産性

生産性の向上によって豊かになることがまったくのウソというわけではありません。少なくとも資本家は資本から所得を得ていますから、生産性が向上すれば直接的な恩恵を受けることができます。つまり資本家にとっての豊かな社会になるとは言えます。

富裕層の大半はこの資産家に分類されます。富裕層に属する人々が生産性の向上を求めることはある意味で当然なのかもしれません。問題は一般大衆にとって生産性の向上があまりメリットのある話ではないということです。

この問題は確実な再分配の仕組みが社会に実装されていれば解決できるかもしれませんが、そうした前提がなければ矛盾が拡大するだけになるでしょう。とりあえず「生産性向上」の念仏を唱えているだけではおそらく何も変わらないでしょう。

狩生

  ■ フリーダウンシフター ■
  ■ 減速ライフを実践中! ■
  ■ のんびり生きましょう ■

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