ミセスの歌詞の薄さはどこから来るのか

スポンサーリンク

Mrs. GREEN APPLEの楽曲はボーカルの大森元基によって作詞されています。ミセス楽曲の歌詞では大森自身の死生観を軸にして独自の世界が描かれています。

ただ個人的にミセスの歌詞は内容が薄いように感じられるのです。今回はこの薄さがいったい何に由来するのか、なぜミセスがこの薄い歌詞を歌い続けるのかを考えてみます。

そもそも存在感が薄いMrs. GREEN APPLE

まだ集計は終わっていないのですが、2024年に音楽ストリーミングサービスで最も聴かれた音楽アーティストがMrs. GREEN APPLEになることは間違いなさそうです。

再生ランキングのプレイリストを主に聴いていることもあって、個人的にもミセスの楽曲を聴く機会も多くなりました。YouTubeMusicの年間ハイライトでもミセスが視聴時間1位になっていました。

ところがMrs.GREEN APPLEをそれほど聴いていたという自覚がほとんどないのです。これはミセス楽曲の特徴だと思うのですが、生活上のBGMとして聴いているだけではあまり引っかかりがないと言うか、楽曲の存在に意識を向けさせられるタイミングが少ないために印象が残りにくいのではないでしょうか。

もっと言えば、ミセスの楽曲には聴き流されることが制作意図のひとつにあるのではないか、という疑問を持ってしまうのです。考えてみれば強烈なパフォーマンスや強いメッセージ性はできるだけ省かれている気がしますし、楽曲の進行などもよくある範囲内で収めていると思います。

つまりあえて存在感を出さないようにしているのでは、というふうに思わざるを得ないのです。

たとえばMrs.GREEN APPLEというアーティストが音楽で何を表現しようとしているのか、訴えようとしているかを明確に認識し説明できる人は少ないのではないでしょうか。

一応おことわりさせていただくと、この記事ではMrs.GREEN APPLEを批判したいとか、その楽曲や作詞法にネガティブな評価をしようとしているわけではありません。

大森詩作の特徴

このように印象に残らない楽曲が成立するのは、歌詞がそのように作られていることにあると考えます。つまり大森は意図して聴き手に印象を残さないように作詞を行っているのではないでしょうか。

大森元基のボーカルとしての歌唱力には疑問の余地はありませんが、作詞家としての能力はどうでしょうか。

大森詩作の特徴と思われるところをいくつかあげてみます。

  • 文の構造規則を無視することがある
  • 主体はほとんど「僕」である、視点は予告なく変わることがある
  • 展開の枠組みが基本的に共通している
  • 死生観が基底にある
  • フレーズが断片化しており、全体を構成しない
  • 言葉の音の響きが意味より優先される
  • 恋愛要素は出てくるが、内容にフォーカスされることはない
  • タイアップが創作の起点にある、オーダーには可能な限り沿う
  • 大森基準の禁則語が存在する可能性がある

こうした要素はミセス作品のなかで一貫していてとても特徴的なので、読めば本人が書いたことはわかります。

ただ特徴的であるにも関わらず印象には残らない、これは何故なのでしょうか。

まず大きな理由として、歌詞全体の展開を考えたときに抽出される話の枠組みが極めて単純だからということがあると思います。しかもこの枠組みは大森作品の多くで共通しています。

大森詩作の主体となるのはほとんどの場合「僕」だけで、たまに「君」が出てくるだけです。「僕」は何かしらの「傷」を負った存在であり、厳しい日常を生きています。そうした「僕」がこのまま「生きていく」という宣言するところまでが基本で、めざすところは「花を咲かす」など作品によって若干変わります。

このように歌詞の枠組みがシンプルなため、その構造に不必要な部分が多く発生しており、内容の薄さをより強調するのだと考えられます。

もう一つの理由として、ミセスの楽曲制作では曲が主体だということがあるのでしょう。極端に言えば歌詞はフックとなる断片的なフレーズをつなげるために作られており、歌詞よりも曲のほうが優先されているからでしょう。

もちろんこれは大森元基の歌唱を前面に打ち出すことが選ばれた結果でもあるでしょう。歌いやすいように歌詞を多少調整したとしても楽曲の評価には影響しないという判断があるのかもしれません。

薄い歌詞を具体例で検証してみる

僕のこと

ああ なんて素敵な日だ
幸せと思える今日も
夢敗れくじける今日も
ああ 諦めずもがいている
狭い広い世界で
奇跡を唄う

これはMrs. GREEN APPLE「僕のこと」(2019年)のサビ部分です。サビと後サビは楽曲中で最も盛り上がるところであり演奏も豪華になっています。曲中でこの部分は歌詞を入れ替えながら繰り返されます。

ああ なんて素敵な日だ
〇〇〇〇〇〇今日も
〇〇〇〇〇〇今日も
ああ 〇〇〇〇〇〇〇〇〇
〇〇〇〇世界で
〇〇〇唄う

〇〇の部分が入れ替わるわけですが、この残った部分がそのままフックとなるフレーズになっています。曲を聴く人がここの歌詞を聞き取って「いい曲だなあ」と評価すると期待されているのでしょう。逆に言うと〇〇の部分にはどんな言葉が入ったとしても印象はそれほど変わらないという判断がありそうです。

「僕のこと」はミセスの代表曲の一つになっていますし、高校生の合唱などでも選ばれる曲です。たしかに漫然と聴いただけなら良い曲に聴こえます。ところが歌詞を仔細に追って意味を拾おうとすると、とたんにどう理解していいかわからなくなるはずです。

というのは大森詩作では通常の文章として読まれると意味が通らないことが多いからです。歌詞は基本的にはポエムなので必ずしも作文上の規則に従う必要はありませんが、大森詩作における言葉の組み立ては相反する言葉を並べることが多いので表面的な文意が通らないことも多々あります。

もちろん文意が通らなくとも何を言いたいかぐらいは読み手には伝わってきます。演出として映像的なイメージを連続して並べていると捉えられなくもありませんし、実際にレトリックとしては機能しています。ただ安易に解釈されることを避けようとしていると思うくらいには直接的な表現にはなっていません。

「僕のこと」はミセス曲の中では部分的な文の意味は通っているほうです。「狭い広い」に関しては音数に合わせるためだけに入っている言葉なのでしょうし、サビ自体も聴いている限りあまり違和感は感じないのではないでしょうか。

文脈的に「なんて素敵な日だ」と叫んでいるのは「僕」ですが、実は「僕」がそう叫んだ理由はこれ以前には示されていませんし、この後にもないのです。今日という日はいつだって素敵な日なんだと自分に言い聞かせている言葉だという解釈も成り立つのですが、その場合は読み手側がかなり補完する必要があります。

つまり「ああ なんて素敵な日だ」は唐突に現れて歌詞のストーリーのなかで浮いたまま終わってしまいます。これが無いと曲自体が成立しないくらいのフックになっているのですが、無いほうが歌詞全体の意味は取りやすい。

「僕のこと」はタイトル通り「僕」のことがテーマになっているはずです。「僕」は何かに怯えていますが、片方で希望を持って生きていきたいと願っています。大人になるまでに様々な苦難を経験しますがその日々全てが「軌跡」になっているんだよ、という落ちサビでのネタばらしがあって「素敵な日」がギリギリ成立している感じにはなっています。

また、この曲は高校サッカー全国大会のテーマ曲になっており、一般的に若者への応援歌のように受け取られています。しかし少なくとも歌詞を読んだなら「僕」はこう生きてきたし、それを誇りに思うというあくまで「僕のこと」を歌った曲だとわかるでしょう。そこに認識のギャップがある気がしてなんだかモヤモヤした気持ちにはなります。

ライラック

ライラック」は2024年のMrs. GREEN APPLEの代表曲と言って良いと思います。以下はその歌詞です。

過ぎてゆくんだ今日も
この寿命の通りに
限りある数字が減るように
美しい数字が増えるように

最初の段落はそれほど文章的な違和感はありません。構成の導入で傍観的に生きる「僕」を登場させています。この「僕」は自身の生を傍観していますが、大森詩作では「僕」を客観視する大森自身のようなもう一人の「僕」がよく登場してきます。

青と夏」(2018年)では「私には関係ないと思っていた」「僕」が「映画じゃない」と叫ぶわけですが、主体的に生きるかどうかは大森詩作にとっては重要なテーマであり続けているのだと思います。

思い出の宝庫
古いものは棚の奥に
埃を被っているのに
誇りが光って見えるように

大森詩作では「思い出」は重要なキーワードであるらしく、「点描の唄」(2018年)などに見られるように大切なものの象徴として描かれることが多いです。もちろんそれは一般的な認識でもあるでしょうが大森詩作ではもっと無条件に至上なもののように扱われます。

「埃」と「誇り」のダジャレが入っていますが、前の段落の続きとして取ると傍観的に生きながらも「思い出」となるものは積み重なっているよね、と言いたいのでしょう。

されど
By my side
不安 喝采 連帯
濁ったりの安全地帯
グワングワンになる
朝方の倦怠感
3番ホーム 準急電車

問題はこのBパートの歌詞が前の段落とまったく脈絡がないように現れることです。接続詞が音だけで使われていますし、表面的な意味は通りません。

ところがこの単語の羅列が珍しく叙述的な表現になっていて、「僕」が登校途中でかなりの高揚感を覚えている風景が妙にリアルに伝わってきます。

青に似た
すっぱい春とライラック
君を待つよ ここでね
痛みだす人生単位の傷も
愛おしく思いたい

ライラックは色名としても植物名もありますがどちらも紫に近い色です。また大森詩作に限らず近年様々なコンテンツで「青」は青春の隠語として通用していると思います。ポカリスエットのCMのような「爽やかな青春」を「青」とするならば、少し弄れた「僕」の青春はライラックなんだろうと言いたいのでしょう。

おそらく「僕」は駅の3番ホームで「君」を待っています。直接は書かれていないので読み手が想像するだけですが「僕」はここ、もしくはその後で「君」にフられてしまったので動揺し傷を抱えることになったのでしょう。

「傷」も大森詩作ではよく出てくるキーワードで、「僕」はたいてい「傷」を抱えており、その傷がどういう経緯で負うことになったのかは明かされることは少ないです。たいていの場合「僕」は「傷」を癒やすか「思い出」に昇華させてこれからも生きていくことを宣言するパターンになります。

「ライラック」はミセス曲にしては珍しくこのサビまでの詩的表現の構成としては破綻していないと思います。すっぱい青春の失恋ソングとして成立しているからです。

探す宛ても無いのに
忘れてしまう僕らは
Oh 何を経て 何を得て
大人になってゆくんだろう

この段落では若者が青春時代に抱える喪失感や不安感を表現しているのだと思いますが、ここで少し俯瞰的な位置にいる「僕」が出てきます。そしてこのあたりで雲行きが怪しくなってきます。

また何を忘れるのかがなぜか明示されていません、文脈的には「思い出」になるでしょうか。補足しておけば「ライラック」はアニメ「忘却バッテリー」のオープニング曲なので、そちらから借用したというか強引に引っ掛けています。

一回だけのチャンスを
見送ってしまう事が無いように
いつでも踵を浮かしていたい
だけども難しいように

ここにも野球をしている若者のイメージが入っています。それ以外の解釈ができないわけではないですし野球少年視点だとしてもなかなか理解しがたい描写です。大森詩作では具体的で臨場感のある場面がほとんど出てこず、論理的な矛盾を孕んだ抽象表現や心象表現が目立ちます。

いずれにしても大森詩作では楽曲のタイアップを意識した描写が入ることが多いので、企画が立ち上がった後に歌詞の制作に入っているか、もしくはストックされている歌詞を適合するように改変する作業をしていると考えられます。

実際のタイアップの条件がどうなっているのかは知る由もないのですが、律儀に歌詞の内容を対応させる必要があるとは思えませんから、大森の作詞家としての職業意識からそうなっているのでしょう。

主人公の候補
くらいに自分を思っていたのに
名前も無い役のような
スピンオフも作れないよな

ライラック」のもう一つのテーマとして「青と夏」(2018年)へのセルフオマージュがあるのでしょう。MVの構成もよく似ています。

ただ「青と夏」では自分が「主人公」であることに気づいた喜びを歌っていましたが、「ライラック」の「僕」は「主人公」にはなれないのではないかという不安をかかえているところが大きく異なっています。

たかが
By my side
くだらない愛を歌う際
嘘つきにはなりたくない
ワサワサする胸
朝方の疎ましさ
ズラして乗る 急行電車 ah

Bパートが歌詞を替えて繰り返されます。ここも前後の文脈と繋がりませんし「たかが」もほとんど音の響きだけで使われています。無力感や自己正当化などで混乱する「僕」の心象風景を表現しているのだとしても、適当に文字を当てているように感じられることは否めません。

また最初のBパートは「僕」の高揚があったので表現的な問題はなかったのですが、この繰り返し部分は詩的表現としても構成が粗雑になっています。

電車をズラすのは「君」と顔を合わせたくないからでしょうから、この部分はおもしろいと思いました。

影が痛い
価値なんか無い
僕だけが独りのような
夜が嫌い
君が嫌い
優しくなれない僕です
光が痛い
希望なんか嫌い
僕だけ置いてけぼりのような
夜が嫌い
一人が怖い
我儘が拗れた美徳

この落ちサビは「僕」のモノローグ的表現で、以降の段落に出てくる「不完全な思い」と「不安」や「敗北感」を表現したものでしょう。

最後の「我儘がこじれた美徳」がパワーワードになっているのですが、具体的に何を意味しているかはまったく不明なのが大森節なところです。

「ライラック」は最近の楽曲としては珍しく5分近くの長い曲で、この落ちサビの後にCパートになり、サビ、Cパートがもう一度入る複雑な構成になっています。

不完全な思いも
如何せん大事にしたくて
不安だらけの日々でも
愛してみる

感じた事のない
クソみたいな敗北感も
どれもこれもが僕を
つき動かしてる

この段落で唐突に悩んでいるところから自分を認めてゆく方向に転じてゆきます。個人的にはもう少し自己の承認や自己肯定することになったきっかけや段階が描かれていて欲しいのですが、完全にすっ飛ばされます。

「ライラック」という楽曲にメッセージがあるとすれば「思春期に抱えた懊悩をありのままに認めていこうぜ」というものだと思います。負ってしまった傷も大人になれば自分の原動力になるんだよ、と言いたいのでしょう。

このメッセージ自体は多少ありきたりではありますが、若者に向けた曲として妥当なものではあるでしょう。

鼓動が揺らすこの大地とハイタッチ
全て懸けた あの夏も
色褪せはしない 忘れられないな
今日を生きる為に

探す宛ても無いのに
失くしてしまう僕らは
Oh 何のために 誰のために
傷を増やしてゆくんだろう

ここでサビに戻り再び「忘却バッテリー」の要素を持ってきます。核となるメッセージが提示されたあとではこの部分の歌詞はあまり機能していません。

雨が降るその後に
緑が育つように
Oh 意味のない事は無いと
信じて 進もうか

答えがない事ばかり
だからこそ愛そうとも

歌詞的にはここでも「ありのままを受け入れよう」という無為自然の主張を言い換えています。

ここは楽曲構成的には大サビ、後サビ、ブリッジなんでしょうか、よくわかりませんが。詞の構成からするとCパートでは課題が解決してしまうのでサビを繰り返すと接合が不自然になってしまうために後に挿入された部分と考えられます。

つまりこれは歌詞の内容や構成にまったく無頓着なわけではないということでもあるでしょう。

あの頃の青を
覚えていようぜ
苦味が重なっても
光ってる

割に合わない疵も
認めてあげようぜ
僕は僕自身を
愛してる

愛せてる

Cパートに戻り、ラストを迎えます。自己愛みたいな表現になっていますが要は自己受容ということですね。やはり大森詩作はメッセージ自体はブレない印象があります。

「ライラック」の歌詞はこの自己受容というメッセージを伝えるために構成されています。他に抽出できる言葉はありません。そしてこれほどシンプルなメッセージであるにも関わらず、やたらと長く複雑な構成の歌詞になっているのです。

少し逆算して考えてみましょう。伝えたいのが「青春時代に自己否定的な悩みがあっても自分を受け入れてあげようぜ」というメッセージなのだとしたら、まずそうした悩みを抱える「僕」という若者を造形するところまではいいでしょう。

そこからは「僕」が問題解決してゆくためのプロセスや葛藤、周りの人々との関係性の変化などを描くのが手筋ではないでしょうか。とくに自己受容は若者が大人になるための心理的成長のステップですから、心象内風景の変化として見えるような表現があればメッセージがより伝わりやすいでしょう。

「ライラック」に感じる違和感はそうした過程を一切省いて、悩みを抱える「僕」に直接メッセージ自体を伝えてしまっているところにあります。「登場」「解決」の2コママンガのように見えるわけです。

また大森詩作では「僕」の視点は比較的自由に移動できるのですが、詩の基底にある大森自身の視点からは離れることはありません。作者から独立した物語のようなものは語られることはないのです。

つまりこれは構造的に起こった問題であり、大森自身が若者に向けたメッセージを直接語ることによる必然的なものでしょう。

歌詞の構造で言えば、Aパートの部分はメッセージを伝えるという観点からはもはや不要になっています。まず悩みを抱える「僕」を登場させるのですが、そのためにはBパートから始めても十分ということです。「僕」のディテールをどれだけ出すかは様々な考え方がありますが、サビ部分までは良いでしょう。

「ライラック」は元になった歌詞があって、それに「忘却バッテリー」要素を加えることでできていると考えられます。というのも「忘れる」とか「野球」の要素がまったく歌詞のメッセージに絡んでいないからです。またあらすじを読んだだけですがアニメの主人公は「僕」のような悩み方はしていない気がします。

するともともとの歌詞の構成としては、Bパート→サビ1→ブリッジ(後半)→サビ2→落ちサビ→Cパートぐらいではなかったかと推測できます。構成としてスッキリとしますし、何よりメッセージに対しての冗長さが減ります。

まとめると「ライラック」の歌詞はメッセージがシンプルでその表現形式が単純すぎることと、タイアップの要素がねじ込まれた結果、歌詞構成が長く複雑になっているために内容としての薄さが際立つ結果になっているのです。

なぜミセスは薄い歌詞を歌うのか

まず薄い歌詞というのは別にMrs. GREEN APPLEに限った話ではありません。他のヒットしたポピュラー・ミュージック(J-POP)の歌詞にも薄いものはたくさんあるでしょう。

歌詞の薄さは軽さと似ていますが、ここでは区別して書いています。たとえば軽い歌詞には耳障りが良いという利点があります。歌詞の深みや壮大さは常に求められるものではありません。気楽に聴ける楽曲にはそれなりに需要はあるでしょう。

アイドルグループが重いテーマを歌わないのはそのような需要がないからであり、賛否の分かれるような主張はイメージ戦略的にリスクでしかないからでしょう。

ミセスは現在最も聴かれているアーティストですからその薄い歌詞には需要があると言えるのかもしれません。ただ問題なのは薄い歌詞も軽く聴こえるということなんですね。

ミセスは何を発明したのか

大森詩作のテーマは大森自身の内省的で人生観や死生観にもとづいたものが大半なので流行歌のテーマとしてはむしろかなり重い部類と言っていいでしょう。

それが薄い歌詞に感じられるのはこの重いテーマに対して内容が浅いからです。たとえばくだらないテーマであっても内容が多角的に掘り下げてあっていろいろな観点から解釈や批評できるようなものであれば、それは薄い歌詞とは言わないでしょう。

おそらく作詞家としての大森は重いテーマでしか歌詞を書けないのでしょう。少なくともどうでも良いようなテーマで書きたいとは考えていないはずです。

一方でマーケティング的な理由から軽く聴こえる歌詞を作る必要があり、さらにはタイアップに対応することを強いられている。これを両立させるために歌詞の内容を浅くして薄い歌詞を書かざるを得なくなっているのだと思われます。

大森詩作ではフックとなるフレーズの選択やメッセージを伝えるための展開の選択では誤っていません。つまり大森の作詞の技術的能力はかなり高いはずです。つまりキーフレーズ間のつなぎとなる部分の訳のわからない感じも意図的に行っているのです。

おそらくミセスが発明したのは、軽く聴こえる曲というのは聴いている最中に歌詞の内容をあまり意識させない曲だという事実なのでしょう。

サビなどで印象に残るフレーズだけパワーワードにして、あとは一聴では意味が取りにくいような歌詞と音の並びが良いように配列するだけです。内容もなるべく浅いところで留めておくわけです。

アーティストって何だっけ

こうした薄い歌詞を書くことは別に批難されることではありません。実績からすれば需要に応えた素晴らしいアーティストということになるでしょう。

もちろん薄い歌詞の楽曲を多くの消費者が好んで選択することは憂慮する事柄でもあるのかもしれませんが、それはまた別の問題なのでしょう。

思うのですが、ミセスの薄い歌詞選択は別の理由もあるのかもしれません。薄い歌詞は人生などの大きなテーマにして内容を浅くすることで作られるわけですが、これの副次的なメリットとして批判されづらいということがあるのではないでしょうか。

まず人の人生観をどうこうとは言いにくいものです。特に偏った価値観を抜いてあるならそうです。もちろん内容が浅ければあえて論評するようなこともありません。

たしかにミセスが批判されている場面はあまり見かけないような気もします。彼らは特に主張をしていませんから当然なのかもしれませんが、要するに批判されることを避けているようにも見えます。この避けた結果が薄い歌詞なのではないでしょうか。

タイアップに関してもそろそろ考えるべきなのかもしれません。現在売れている楽曲はほとんど何らかのタイアップがかかっています。各々のタイアップの内容は外部からはわかりませんが、多くの場合は楽曲使用料名目の制作側の副収入ということでしょう。アーティスト視点だと一定の制約と引き換えに収益を得ているわけです。

タイアップは結局コンテンツ作品である楽曲にどこかで干渉するでしょう。ミセスの場合は薄い歌詞がさらに薄くなってしまう。楽曲制作費が安くなっていることを考えるとスポンサー料というのはもはや何なのかよくわからないものになったと思います。

マーケティング優先の楽曲制作と収益目的のタイアップを続けている以上、ミセスが商業的な立ち位置の音楽家であることは間違いありません。もちろんそれを批難したいわけでもありません。

ただこのことで一つ疑問に思うのは、アーティストは大衆に対して何か主張したいメッセージがあるものではないのかということです。

狩生

  ■ セミリタイヤブロガー ■
  ■ 減速ライフを実践中! ■
  ■ のんびり生きましょう ■

読書 / 古代史研究 / ウォーキング / ダウンシフター / ドロー系絵描き / AppSheet / 脱消費主義 / 英文小説

著者をフォローする
デジタルコンテンツ
スポンサーリンク
著者をフォローする

コメント

タイトルとURLをコピーしました