Mrs. GREEN APPLEの新曲「ダーリン」がリリースされましたので、歌詞を分析してみたいと思います。
「ダーリン」に隠された大森元基の本音
Mrs. GREEN APPLEの楽曲はほぼすべてボーカルの大森元基の作詞になっています。大森の作詞法についてはこちらでまとめています。
「ダーリン」はNHKの番組「18祭(Fes)」のテーマソングになっています。静かなバラード調の前半と変わって歌い上げる後半との差が印象的で、大森の歌唱力を最大限活かした楽曲になっていると思います。
「ダーリン」の歌詞の中核はウラ側にある
別の記事でも少し書きましたが、これまでのミセスの楽曲制作においては歌詞は特に重視されておらず、優先度は低いのではないだろうかという認識でいます。
率直に言って「ダーリン」の歌詞も当初はそれほど良いとは思えませんでした。大森詩作の特徴が悪いほうに暴走しているような印象があり、なにより歌詞の内容が素直に頭に入ってこないために読み手としては負担を感じる部分が多かったからです。
ただ何度か読み返すうちに、ウラ読みが許されるのであれば、それなりにこの歌詞の意図が読めなくもないなと思うようになりました。
歌詞は基本的にポエムですが文章でもあります。もちろん標準的な文章というわけではありませんが、表現上の制約は少ないので、レトリックを駆使することで表面的な意味とは別のウラの意図を混ぜ込めます。
「ダーリン」の歌詞にはこうしたウラ側が隠されていると考えます。もちろんこれは作詞者の大森によって意図的に置かれたものであるはずです。
作詞家がその作品をあえて多層に構成するのはいくつか理由や事情があります。最も大きいのはレトリック上の仕掛けを施すことによりその歌詞の作品性が上がるからでしょう。歌詞世界を多重に解釈可能にすることができれば、楽曲が聴き手に与えるイメージを膨らませ、より奥行きのある世界を描くことができます。
また作者本人がネタバレをしないのであれば、その性質からウラ読みされる内容は作詞家の責任外のことになります。責任を免れるからこそ声高には言及しづらい内容であっても表現しやすくなるというわけです。「ダーリン」の歌詞の場合はおそらくこちらの性質を利用した詩的表現になるでしょう。
こうした歌詞の多重構造を取った作品では、オモテ側の表現にどうしても不自然な箇所や意味の通らない文ができます。実際に「ダーリン」の歌詞は表面的な文意がかなり取りづらくなっており、明らかに不自然な表現も散見されます。
もともと大森詩作では不整合な表現は多用されるので、かえって気づかれにくくなっている面もあるのだと思いますが、たしかに「ダーリン」は単純ながらもウラ面構造を持っており、ウラ側のほうが作品の中心になるように構成されています。
オモテ面側の概要
まず歌詞のオモテ面についてまとめます。
ここでの解釈としては「ダーリン」はウラ読みするためだけの歌詞になっていると判断しているので、本来はオモテ側を考察してもあまり意味がないのですが、この話を理解していただくには歌詞のオモテ側がいかに破綻しているかを示すほうが手っ取り早いでしょう。
オモテの話の構造は、孤独や喪失感だかに悩む「私」が、なんだかよくわからないうちに「私は私のまま生きていきます」と宣言するところで終わるいつものパターンになっています。
ミセス楽曲では珍しくありませんが「ダーリン」もおそらく良い曲という評価になるのでしょう。これはほとんど曲の品質や大森のボーカル能力の高さによって実現されていることで、歌詞については微妙というのが実際のところなのではないでしょうか。
「ダーリン」は比較的スローテンポなので歌詞はかなり聞き取りやすいほうですが、聴きながら歌詞の内容を正確に追うことはできないのではないかと思います。詩の文意が支離滅裂になっているので頭のなかでストーリーを形作ることができないからです。
断片的なフレーズをつなぎ合わせることで、なにやら孤独を感じている人物が思い悩みながら一人にしないでくれと叫んでいるような内容だ、ぐらいはイメージできそうですが、たとえ歌詞をじっくりと読んだとしてもそれ以上の内容を読み取ることは難しいかもしれません。
ミセス楽曲では歌詞の単フレーズを聴き手に静画的イメージを想起させるためだけに使用されることが多いので、全体の筋立てに一貫性がなく、説明も後付のように感じられることが多いです。
「ダーリン」では歌詞にウラ面構造を作ることが構想されているためか、表面的なフレーズの選定が困難になり支離滅裂さに拍車がかかってしまっているようにも見えます。
これが顕著に現れているのはラスサビの最も盛り上げている部分の歌詞「ワダカマリが楽になるわけじゃない」でしょう。
通常大森はこうしたフックが必要なパートのフレーズ選定を誤ることはないのですが、さすがにこのフレーズが共感を呼び起こすために選ばれたとは思えません。
仮にこのフレーズをここで歌いたいのであればワダカマリの内容や対象についてもっと事前に説明が必要でしょうし、登場人物がワダカマリに苦しんだとする描写があっても良かったでしょう。なぜみんなと同じかどうかがワダカマリと関係しているのかもわかりません。
もう一つこの歌詞を理解しづらくしているのは、主体が「私」だったり「僕」だったりするということでしょう。タイトルであるダーリンも誰のことを指しているか不明確ですし、大森詩作でたまに出てくる「君」も今回はなぜか登場していません。ラストの「あの子」が何なのかも不明です。
これらを説明するために登場人物の「多重人格説」やら「統合失調症説」なども一度は考えてみたのですが、上手くはいきませんでした。
ウラ側に描かれる「本音」
ウラ側へのカギはラスサビの「darling 本当の音を聴いて」にあります。ここまで「音」の要素なんて出てきていませんから「本当の音」は「本音」を言い換えたものであることは、ある程度詩を読み慣れた人であればすぐにわかると思います。
また「ダーリン」は成人の日の18祭(Fes)のテーマソングですが、ミセスが出演した今年の番組のテーマは「本音」になっています。
つまり大森は律儀にオーダーに沿ってこの曲を書いているのでしょう。昨年は「コロンブス」のMVの騒動もありましたが、タイミング的に番組の企画が始まったのはその頃であるのかもしれません。
「本音」をテーマに若者に向けて歌詞を書くとするなら、「内面をもっとさらけ出そう」という形にするか、あるいは「自分を見つめ直そう」というメッセージになりそうです。もしくは「本音」を抱える人物を詩情的に表現するかです。
「本音」を「本当の音」と言い換えて、さらに様々な論理不整合なフレーズを散りばめることで目立たなくしているのは、大森にとって「本音」は秘めておかなくてはならないものという認識であり、それを詩の構造にして表現しようとしていると推測できます。
「ワダカマリ」というのは様々な事情で表に出しにくくなってしまった事柄や感情のことを言うわけで、大森にとっては「本音」とほぼ同じ意味になるのでしょう。そしておそらくこのワダカマリを楽にするには「本音」を誰かに言ってしまえばいいというような単純な話ではないのでしょう。
大森元基ナルシシスト説
それではこの歌詞のなかで聞いてくれという「本音」とは何なのでしょうか。
もちろんこれは大森本人の実際の「本音」と同一である保証はありませんし、「本音」なんて隠されていないという可能性もあるでしょう。
ただ「ダーリン」のようにわざわざ多重解釈構造を作っているということを考えるなら、そこに描かれる「本音」は実際のものと捉えることにもそれほど無理があるわけではないでしょう。
また意図的な多重解釈のある作品はウラ面も含めて見ることで本当に鑑賞することになるとも考えられますから、ウラ面の存在自体をあまり疑う必要はないと思います。
いずれにせよこうしたウラ面の解釈は読み手の想像の域を出るものではありません。逆に言えば、だからこそウラ面に「本音」が描かれていると期待できるのです。
そうした想像のひとつの結果として「大森元基ナルシシスト説」にたどり着きましたので紹介してみたいと思います。
大森詩作の特徴として他者が「君」以外はほぼ出てこないということがあります。この「君」もほとんど観念的な存在なので、大森詩作で描かれているのは基本的に大森本人のインナーワールドだと言って良いでしょう。
こうした詩作の傾向から判断するに、大森は極めて内向的な人物なのではないかと思われます。もっと言うなら他人にはあまり関心が向かない人であり、シャイでありかつナイーブでもあるのでしょう。
また「ライラック」のラストでも少し感じたのですが、大森の中では自己愛が大きく存在しているのではないかと想像できます。自己愛は誰にでもあるものですが、大森にとっては自己意識の大きな割合を占めており複雑な内面世界があるのではないでしょうか。
おそらくナルシシストの典型例と言えるほどではないのでしょうが、少なくとも自己愛を強く持ちたがる傾向はあり、それによって自信のなさや社交上の煩わしさを埋めたいと感じているタイプなのかなと想像します。
ナルシシスト説で読む「ダーリン」
それでは「ダーリン」をナルシシスト説にもとづいて読むとどうなるでしょうか。
まず「ダーリン」のウラ読みは最後のパートからはじめる必要があります。ここで「本音」を聞いてくれと言っているからです。
darling 本当の音を聴いて
やるせない日々の膿は出切らないけど
ねぇ 私の私で居てもいいの?
あの子にはなれないし
なる必要も無いから
ここでは「私の私」「あの子」が出てきます。そしてタイトルの「darling」もあります。ナルシシスト説では「私の私」は「自分と自己愛の対象になる自分」だという解釈になります。そして「darling」と呼びかけているのも呼びかけられているのも自分なのです。
「”私”だけの愛」は「自分だけで完結する愛」、「誰かの私」は「自分に愛される私」、「”私”だけ独り」なのは「自己承認を許されない”私”」など主体をそれぞれ自己内の一部と考える解釈もできそうです。
なんだか頭がおかしくなりそうな想定ですが「ダーリン」の歌詞が支離滅裂になっているのはここに由来しているはずです。問題は「あの子」をどう考えるかですが、これも理想像や俯瞰に近い大森の一部か自己完結してしまうことを拒否したい大森自身を言っているのではないでしょうか。
「やるせない」は「思いを晴らせない」という意味です。自分を愛する自己愛はままならない他者との関係がないのですから簡単そうにも思われますが、実際には内心において葛藤なども生まれ得るものなのかもしれません。
つまり自己愛に対して戸惑っている大森もいるのでしょう。客体化した「私」と「僕」の葛藤はワダカマリとなり、同一の存在だからと言って楽になれるわけでもない、と叫んでいるのが「歌っている大森」ということになります。
羨ましい ただ虚しい
このあたりは分離したそれぞれの大森の言葉なのでしょう。
そして大森の「本音」の中心にあるのは
嫌われたくもないけど
自分を好きで居たい
ということに尽きるのだと思います。自己愛をあまり表出させてしまうと嫌われてしまうと感じているとも解釈できます。
これを「本音」だと悟られないためにいろいろと工夫をこらして無理やりな表現を散りばめているのが「ダーリン」の歌詞の実像なのでしょう。
ちなみに嫌われたくないというフレーズは「ビターバカンス」にも出てきており、ここが「本音」の基部にあるのは間違いなさそうです。ただそこは歌のメッセージとしては採用しにくいところであり、大森詩作の無難な感じにつながる理由でもありそうです。
この2曲からは大森は疲れていて休みを求めてる印象を持ちます。余計なお世話でしょうが、無理をしないでしばらく休んだら良いのになと思っています。
以上は個人的な想像になります。
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