わたしXGを知ったのは「WOKE UP」がリリースされた頃です。先月あたりからYouTubeの動画コンテンツを初期から追いかけはじめて、ようやく「Puppet Show」までたどり着けました。
この「Puppet Show」は非常に意欲的で難解な楽曲であり、おそらくXGにとっても特別な意味のある楽曲だと思います。楽曲の解釈を中心にこの曲が数日頭から離れないでいます。自分の頭の整理のために楽曲の考察をここでしてみたいと思います。
なぜXGなのか
動画を見ているうちにすっかり彼女たちの虜になってしまいましたので、今ここでXGを選んでいる理由はファンだからという一言で説明できてしまいます。
個人的に春あたりから音楽コンテンツ産業の動向をさぐろうとしていたのですが、国内で多く聴かれている楽曲を中心に絨毯的に視聴をしている過程でXGに出会いました。
XGは国内音楽産業においてかなり特異な存在であり、積極的にグローバルを舞台に活動しようとしているほとんど唯一のアーティストと言って良いでしょう。また人気や実力、そのコンテンツ制作能力も抜きん出ており、彼女たちの成功の如何がこれからの音楽産業の盛衰を占うことになるという確信もあります。
「Puppet Show」を考える
「Puppet Show」はXGが昨年リリースしたミニアルバム New DNA のなかの一曲です。
最近の楽曲はどのアーティストのものでもそうですが、歌詞とダンスとMV映像がセットとして構成された複合的な音楽コンテンツでもあります。
まず「Puppet Show」の歌詞に関しての私なりの分析と解釈からはじめます。
歌詞の解釈多義性
お気づきの方も多いのかもしれませんが「Puppet Show」の歌詞は多層的な解釈ができるような構成になっています。これは間違いなく制作者の意図によるものでしかありえないので、ここは歌詞の読み手が楽しんで自由に解釈してゆけば良いところだと思います。もちろん正解というものはないでしょう。
表層的な解釈
歌詞を冒頭から読み進めながら文字通りに解釈していった場合、浮かんでくるストーリーはおそらく以下に近いものになるでしょう。
冒頭に登場し、独白するのは一人の女性
彼女は(おそらく交際している)男性から抑圧的な態度を取られている
彼女の主張は聞き入れられず、言葉に耳を貸されることもない
そこで彼女は男性に提案する
・役割(立場)が逆であったらどうなるか想像してみてほしい
・そこではあなたは私の言うとおりにするしかない
・あなたは私の望むことを何でもするしかない
・それを拒むことはできない
・もしかしたら私は自分から関係を終わらせるかもしれない
・それは人形劇の人形になったような気分ではないですか
(補足:それが嫌だと感じるならば態度を改めてください)
とりあえず、これを「表層的な解釈」としましょう。
この解釈ではサビパートを含めた楽曲の中盤以降は女性が言う想像のなかの世界になります。女性が支配して思いのままになる世界であり、仮にこのサビしか聴かなかったとしたら、XGは女性優位の社会を目指そうというメッセージを発しているアーティストのようにも見えてしまうかもしれません。
もちろんそれは曲解ですけども、曲の構成がサビで終わっていることと上記の補足部分などを含めて歌詞内だけではキャッチアップされていないところが多いので誤解が生じやすくはなっているでしょう。
これは多層的な解釈ができるように歌詞を意味的に多重構造にしているためでもあり、こうした構成を取って自由な解釈を求めるなら一定の誤読は仕方ないかもしれません。
そもそもなぜ”Puppet Show”なのか
もしかしたら「Puppet Show」が解釈多層性を持つことに疑いを持っている方もいらっしゃるかもしれないので、ここで少しメタ的に考えてみましょう。
たしかに「表層的な解釈」だけでも楽曲としての面白みやメッセージ性は十分なのかもしれません。ポピュラー・ソングの歌詞はこのくらいの内容で終わっているものも多いでしょう。
ではここで、あなたがこの「表層的な解釈」を歌に込めて楽曲を作る立場になったとして考えてみてください。
なんだかこの歌詞にはずいぶん無駄な部分が多いとは思わないでしょうか、またこのメッセージを伝えるにしても表現方法として無駄に分かりづらくなっていると感じられる部分がないでしょうか。
「表層的な解釈」はあくまでミスリードとして置かれていると思います。思い出してください、この曲のタイトルは”Puppet Show”です。この「表層的な解釈」を伝えるために人形劇を持ち出す必要があるでしょうか。
ですから考えるべきは、そもそもなぜ”Puppet Show”なのか?という点にあるはずで、これを解決しない解釈は説得力が薄いと判断できます。
パペットが主役とする解釈
もちろんMVを見ればすぐに気づくことかもしれませんが、ここでは歌詞からその解釈を考えています。つまり歌詞における「私」はおそらくパペットなんですね。これを念頭に解釈するとこうなります。
冒頭に独白しているのはパペットのうちの一体
人形劇で言葉を発するのは操者や話家でパペットの言葉は届かない
レディのように扱われたいけれど、実際にはモノ扱い
「私」は仲間のパペットに想像を促す、人形と操者が入れ替わった世界を
・操者と人形はもとからストリングで結ばれている
・パペットたちはストリングで繋がれているので操者たちを好きなように操れる
・リードしているのはパペットであり、操者は余計な存在である
・私たちは好きなように振る舞い、いつでも操者を切り捨てられる
・私たちは何でも簡単にこなせるし、夢を叶えることができる
・パペットと操者がストリングで繋がっている限り操者たちはなんでもしてくれる
これを「パペット視点解釈」としましょう。
具体例をすぐに思いつけるわけではありませんが「操り人形が自我を持ち、拘束を断ち切って自由を手にする」というモチーフは物語や歌の歌詞などでもいかにもありそうです。
「Puppet Show」で特徴的なのはパペットと操者をつなぐ紐(ストリング)は切られることがないということです。パペットはいつでも切り捨てられるのよ、とは言ってみせているわけですが、夢を叶えたり楽しみ続けるためには操者を切り捨てることができないという事情が要所に伏せられているようにも感じられます。
つまりこの解釈から導けるメッセージの可能性の一つとして、一面で支配-被支配の関係に見えるとしても、二者を繋ぎ止めている関係性自体が実態としての共依存を生むこともあるよね、ということなのではないかと思います。
心理的葛藤解釈
個人的には「パペット視点解釈」を取るのですが、他にも可能性のありそうな解釈を加えておきましょう。
たとえば冒頭に出てくる男女は一人の人間の心象内風景を象徴的に描いたものであるというものです。つまり歌詞の解釈はこうなります。
冒頭の独白は「私」の心象A(本心、欲求、希望)と心象B(理性、理想、摂生)
Bは社会的制約やしがらみを尊重するためAを抑圧している、Aの言葉は通常無視される
フラストレーションを感じる「私」にAが提案する、操り人形であることをやめよと
「私」と反転したAとBは心象内パペットになり、その対立が葛藤(人形劇)になる
パペットを裏から操っているのは「私」であり、つまりは自分次第になる
自律的に生きる「私」はなりたい自分を実現し、自由を得る
「私」はもはや楽しみのためにパペットを動かし人形劇を演じさせる
手綱を手放さない限り「私」は自由でいられる
言うまでもなくこれは多少無理のある解釈にはなります。
ただいずれにしてもパペットは何らかの比喩を含んでいるはずです。どんなに強力な社会的規範や支配的なパラダイムであっても、その転換はまずその反転した状態を想像してみることから始まるのでは?というメッセージであるのかもしれません。
違和感を探す
ここからは少し作詞技術的なところから攻めてみます。
詩などにおいて解釈多層性を意図的に構成しようとした場合、あちらを立てればこちらが立たずという状況が当然起こり得るわけで、それを強引に解決せねばならないこともあるわけです。
つまり強引に解決された箇所というのは一義的解釈を期待する受け手にとっては不自然に感じられるでしょう。使うべき単語を使っていないとか、説明を省いているとか、あいまいにしているとかです。
逆に言えば違和感を感じる部分を見てゆけば解釈のヒントになる可能性が高いということです。
[Hinata] Wrapped round our fingers They couldn’t tell us no no no
たとえばこの Hinata のパートは重要なカギになるかもしれません。まず何が指に巻かれるかが明示されていません。これは不自然です。しかも「私たちの指」にです。
追記:【 wrap around one’s little finger 】は「意のままに操る、人を振り回す、手なづける」などの意の慣用句だそうです。
また、この文以降は人称代名詞がほぼ複数形になります。「表層的な解釈」では They のように操作対象が複数である必要性が基本的にはないので、ここが最初の違和感になるでしょう。
そして「表層的な解釈」ではここで指に巻かれるものを String であると考えるわけですが、our が冒頭の男女であるなら、英語表現としては微妙なところですが、お互いの指や結婚指輪を思い浮かべることもできるでしょうか。あるいはもっと単純に”赤い糸”だと考えても良いかもしれません。
「表層的な解釈」では our を girls とするなら They を boys と取りたくはなります。ただこれは説得の例え話にしては少しオーバーな気もします。また our を冒頭の男女と取った場合、They は二人の交際や結婚に反対している人々ということになるのでしょうか。
「パペット視点解釈」では our はパペットの仲間ということになり、They は操者たちになります。
Welcome to the puppet show
Where we play’em like their plastic dolls
They’ll do anything anything anything
When you got’em hanging by a string by a string
ここはサビの部分ですが their plastic dolls が出てきます。ここは「パペット視点解釈」でないとむしろ理解しにくい箇所になっています。
そして「彼らはなんでもしてくれる」ことを強調しますが、一方で「 String で繋がっている間に(自ら操作すれば)」という条件めいた表現が毎回必ず付け加えられます。
[Cocona] Don’t like the look of this picture
Boy you think that I’m in love witcha?
Haha cry me a river
Thought you were slick to lead
But you’re an extra
Coconaのラップパートは「表層的な解釈」だとずいぶん冷たい女性に感じられますが、こちらも「パペット視点解釈」で人形と操者が入れ替わった状況であればパペッペパペパペなとてもコミカルな場面なのだとわかります。
[Harvey] I’m the controller play’em like atari
[Maya] It ain’t game over till I say so, got it?
ここの2つのパートは韻とリズムを合わせてあるのですが、話の流れとしてゲーム機が出てくる必然性はないということと、コントローラーはたしかにゲーム機を操作するためのものですが、プレーヤーによって操作されるものでもあるというところに面白みがあるのでしょう。
「パペット視点解釈」であれば事態をゲームと捉えている発想が少しオモチャっぽく感じられることがより整合的でもあります。
NEW DNA における「Puppet Show」
ここで「Puppet Show」という楽曲について一度整理しましょう。
NEW DNA はXGの初のアルバムです。「HESONOO」でXGの誕生を描いているように、このアルバムでは一貫してXGが何であるのか、何を表現するのか、どこへ向かうのかを丁寧に定義付けています。
XGは秀でた遺伝子(才能)を持った7人の女性であり、彼女たちはHESONOOという強い絆で結ばれているというわけです。基本的なコンセプトとして女性の強さを提示していて、特に視覚的に異星人であることを押しています。
「NEW DANCE」は本来この異星人コンセプトからは外れていますが、タイトルが NEW DNA のアナグラムになっていること、最後に宇宙船?にワープして少し強引に辻褄を合わせています。いずれにしても音楽とダンスを楽しむことがコンセプトの一つであることも間違いないでしょう。
加えて言えば、デビュー曲以来歌詞に”XG”が必ず出てくるので、ここまではXGが少し自尊的な感じの自己紹介や意思表明曲が続いていた言えます。
どうして “Puppet Show” でなければならなかったのか
このようにコンセプトに一貫性をもたせてきたにも関わらず、最後の楽曲が「Puppet Show」になっているのはなぜなのでしょうか。
アルバムの構成から考えるなら、ここにはアーティストとしてのXGが何者であるのか、これからXGが伝えてゆきたいメッセージはどのようなものなのかを暗示ぐらいはするような楽曲が置かれるべきではないでしょうか。
そして “Puppet Show” について考えるうちに、これはまさにそのような楽曲なのだなと気づきました。
Puppet Show(人形劇)は人形と人形を操る人、そして観客がいるという3点の構造を持ちます。そしてこれはXG自身と全く同じ構造なのです。
つまりアーティストと制作陣(曲、歌詞、ダンス、映像、デザイン等)と視聴者という関係です。XG7人は楽曲において表側の演者でしかないということになります。もちろんこれ自体は当然でもある話であり驚くことではありません。
問題は「Puppet Show」という楽曲においてこの構造を意識させることの意味です。
普通に考えるならアーティストという文脈ではこの構造が示す事実をことさら強調する意味は特にないでしょう。応援しているアーティスト自身が自分は操られたパペットでしかないですよ、と言っているようなものですから。
さて、こうしたことを踏まえた上でMVを見てゆきましょう。
ミュージックビデオ “Puppet Show” に見る決意
現在のポピュラー・ミュージックは楽曲とダンス、映像、デザインなどが複合したコンテンツになっています。多くの人はMVの映像と曲を同時に視聴することで新しい楽曲と出会います。
楽曲のイメージやストーリーはもはやミュージックビデオの映像の影響のほうが強く、歌詞が注目されることは少なくなってきたような気がします。楽曲の作品性の評価においても映像が主体になると言って良いでしょう。
「Puppet Show」では歌詞とMVで表現している内容に少し違いがあると思います。これは解釈多層性のような文章レトリックをそのまま活かした形で映像化することはできないからなのでしょう。
また楽曲が完成した後にMVが制作されたのだと勝手に判断しているのですが、MVは歌詞世界の奥深さを別の形として表現した素晴らしい映像作品となっていると思います。
MVを最初から見ていきましょう。
まず気付くのはそこが異世界であるということですね。Chisa が宙に浮いていますし Juria が風船に手を伸ばしたときも空高く飛び上がっています。
宙に浮く描写は吊り下げられたマリオネット(操り人形)の足が地面から離れている様子から取られていると思います。
勘のいい人であればここで、この世界ではXGのメンバーはパペットになっていることに気づくのかもしれません。つまり歌詞のネタバレになってしまっているわけですが、まあそこは良いでしょう。
メンバーがパペットであることは表情が乏しいこと、紐状のものを衣装として身に着けているメンバーが多い。記号のタトゥーがあることなどでも示していると思います。
メンバーの衣装も人形をイメージしているようでもあり、またブライダル装束のイメージも一部含まれているように見えます。
また地上を徘徊している白い巨人たちも一応パペットなのでしょうが、メンバーは色が入っている分、自我が目覚めている、あるいは特別な能力があるパペットであることを示しているのだと思われます。
ストリングは歌詞でもそうでしたがこの曲において重要なキーワードになっています。
歌詞ではストリングは繋がった相手を操るものでしたが、「パペット視点解釈」では切ろうとしても切れない絆のような相対的なものとしても見えました。
アルバムタイトル「NEW DNA」の DNA が二重螺旋でもありストリングです。HESONOOもストリングです。おそらくXGにとって命の連鎖や人と人の繋がりを象徴しているのがストリングなのでしょう。
MVの落ちサビでは妊婦らしきパペットが出てきます。メンバーは新しい生命と繋がりを持つと、何かしらの決意を持った様子で穴の中に飛び込んでゆくことになります。
そしてMVにおいて最大の謎があの”大穴はいったい何を象徴しているか”ということでしょう。
実はMV世界でメンバーがパペットであることがわかっていれば、穴が何を意味するかはほとんど自明なことでもあります。
つまりXG演じるパペットはXG自身なのです。
厳しいオーディションやトレーニングを生き残って世界のスターへの道を駆け上がろうとしている実在のXGの誕生過程が描かれているのが「Puppet Show」のMVというわけです。
パペットの一体が爆散したように穴に飛び込むことはリスクや壁があり極めて難しいことなのでしょう。選ばれて努力することを決意したものだけがそこに飛び込んでゆくことができます。
反転世界の「Puppet Show」
ところでMVでXGのありようを描いているのだとすると、”Puppet Show” はどう関わってくるのでしょうか。
ここからは推測でしかありませんが、おそらくMVではかなり抽象的に”Puppet Show”を描いているのではないでしょうか。つまりMVではアーティストの”Puppet Show”構造に着目し、映像では単純に空間の上下でそれを示しているのだと思います。
操り人形では舞台の上に操者がいて、下にパペットが吊り下げられるわけです。これをアーティストの構造に言い換えるなら世界の上方が制作陣側、下方が演者側です。
そうすると、この世界で穴に飛び込んだXGメンバーはパペット側に落ちてゆくことになります。
つまり自らパペットになることを選択しているし、より優れた演者でありたいと望んでいることになるでしょう。
このことから逆に考えると、XGは”Puppet Show”構造を否定ではなくて全面的に肯定と捉えて活動してゆくことを宣言したいからこそ、ここに「Puppet Show」が制作されてアルバムの最後に置かれているのだと思います。
これからの音楽産業が複合的なメディアコンテンツとして発展してゆくためには、それぞれの分野で専門的で職人的な能力を活かせる分業生産体制を確立しなくてはならないと確信しているのでしょう。
ところで抽象的な表現としてはメンバーは奈落に落ちてゆき薄暗い穴の底で大サビを歌うのが正解なのでしょうが、さすがに映像表現としては難しいので世界を反転させて塔の上で歌うことになったのではないかと推測しています。
誇らしげにパペットとしての最後の礼をする姿はとても美しいなと思っています。
“Puppet Show” が示す覚悟
アーティストの”Puppet Show”構造はK-POPなどのアイドルグループを見ていれば当たり前すぎて特に違和感はないでしょう。もっともK-POPではセルフプロデュースを売りにしているグループも多いので、そのあたりはやはりそれぞれで微妙なところなのかもしれませんが。
XGはヒップホップ、R&Bのガールズグループであり、グローバルな活動を公言しています。世界的なアーティストになるのであれば北米などのヒップホップの本場にも切り込んでいく必要があると考えているのでしょう。
“Puppet Show”構造が問題になるのは、音楽アーティストは自分の言葉で自分の伝えたいメッセージ発するものだというテーゼが支配している場面になります。そうした文化環境で”Puppet Show”構造を認めてもらうことは実際にはかなり大変なことである気がします。
“Puppet Show”はいつでもアイドルグループを揶揄する言葉になり得るからです。
つまり最初のアルバムに「Puppet Show」があえて掲げてあるのは相当な覚悟が必要なことだったと思うのです。XGの挑戦には期待していますし、応援もしたいですね。
ところで今「Puppet Show」のBehind動画を見ていたら、メンバーの誰もここで書いたようなややこしい話はしていませんでしたね。実際のところは全くわかりませんけれど、またやってしまったかという思いもありつつ。現実としてもPuppet Showなのかもしれないなと思ったり思わなかったり。
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