King Gnuの歌詞分析は先日10曲まとめて行いました。
常田大希による詩作はそれぞれの作品で異なった工夫がなされており、分析していて楽しかったので全曲分析を目指して個別にとりあげてゆきたいと考えております。今回は先日リリースされた「ねっこ」の歌詞分析を行います。
ねっこ
2024年12月リリース曲。ドラマ「海に眠るダイヤモンド」主題歌。
この楽曲は聴き手を引き込む力がすばらしいですね。MVを鑑賞しながら少し感動してしまいました。
歌詞分析
さて歌詞分析は冷静にやっていきたいと思います。
まず「ねっこ」はドラマ「海に眠るダイヤモンド」の主題歌になっています。常田はドラマの脚本などを読んだ上で楽曲の制作をしたことを明かしています。実際に歌詞はドラマの内容とリンクしていますし、ドラマのラストシーンを劇的に演出するための重要な要素にもなっています。
つまり「ねっこ」の歌詞を分析してゆくためには、どうしてもドラマの内容に踏み込む必要があります。加えて自分はドラマを視聴していないので、ドラマについてはネットにある「あらすじ」やネタバレ気味の記事などから想像しているだけです。そのため壮大に勘違いな歌詞分析になるかもしれませんが、お許しください。
「ねっこ」は表面的には男性からの控えめでいつまでも変わらない想いを歌っているように見えます。「ささやかな花でいい 大袈裟でなくていい」「誰も気づかない 有り触れた一輪でいい」というサビのフレーズは確かにそう言っています。
常田が「ねっこ」に施しているギミックは単純でわかりやすいので、気づくほうが普通なのかなと思います。ただこれは罠漁の餌のようなもので、常田は策士です。自分もドラマの内容を吟味する前は見事に引っかかっていました。
そんな花がいい
ただ君が泣くなら僕も泣くから
その美しく強く伸びた根は
誰にも見えやしないけれど
無常の上に咲き誇れただ君が泣くなら僕も泣くから
心ふたつ悲しみひとつで
何十年先も咲き続ける花
無常の上に、さあ咲き誇れ
これを「語り手交代説」として説明すると、楽曲構成で言うところのこのCパートで常田がコーラスに入ってきますが、歌詞中この部分は男性視点になっています。つまりこのパート以外はすべて視点が別になっているように見えるわけです。
その理由は、まずこのパートの前後にトランジションの演出が入り曲構成として浮いていることですね。あと歌詞から言えば口調が微妙に変えてあること、「そんな花がいい」とここで花を選んでいること「その美しく強く伸びた根」で根が客体化していることなどがあります。
ドラマのラストシーンではこの歌詞の真の語り手が誰であったのかが明らかになります。つまりそれまでは伏せられていて、別の登場人物の話であるかのようにミスリードされている。ドラマの構成自体がそうなっていて「ねっこ」の歌詞はそこに演出上うまくリンクするように作られています。
ドラマは回ごとに焦点のあたる人物が変わる構成なので、主題歌「ねっこ」は重要な場面で毎回流れることになります。つまり歌詞の語り手は誰とでも取り得るほうが都合がいいのでしょう。
もちろん歌詞の主体を誰と取るかは歌詞を解釈する上でも重要なポイントになるので、誰でもいいというわけにはいかないのですが、そこをボカしてあるということ自体がこの歌詞のギミックになります。
つまりドラマの主題歌としての「ねっこ」は主体が誰でもあり得ることが正解としていて、ラストシーンでは特に印象的になるように構成されているのだと思います。
生き別れの母子説
では「ねっこ」の歌詞単体ではどう読めるでしょうか。
語り手の問題は置いておいても、歌詞の語られる愛情や想いには、何らかの事情で一緒にはいられない関係が存在することを示唆しています。
もちろん最初に思いつくのは不倫恋愛なのかなということです。たしかにドラマならありそうなテーマですし「誰も気づかれない」などは周りの目を意識した感じがあります。
また「あなたに見つかるのを待つの」や時間の経過の速さを嘆いていることから、結ばれなかった恋愛を経験した人物が過去をいつまでも引きずっているようなイメージも浮かびます。
もっと丹念に読むと、歌詞で歌われている愛情や想いは男女間の恋愛感情ではないようにも感じられます。「大事な者こそ 時の風が攫ってゆく」などは、何らかの事情で生き別れになった母親と子供がいて、名乗り出ることも叶わないまま、影から子供の成長を見守る母親の感情が歌われているようにも読めます。まるで昭和のドラマですけど。
ドラマ「海に眠るダイヤモンド」は「あらすじ」を読んだだけなのですが、そのあたりも様々匂わせながら展開しているのだろうなと想像します。
ただ「語り手交代説」は有力であることも確かだと思います。最後の転調の部分が「そんな花がいい」になっていることに意図が感じられるからです。これだけで最期の最期で結ばれたようなイメージが浮かんできます。
タイトル「ねっこ」を考える
まず「花」から考えると、ドラマの舞台である端島(はしま)の「端」は「はな」と読めます。つまり「花」は端島そのものです。また登場人物の一人は島で屋上庭園を作っており「花瓶」が重要なアイテムになっています。もちろんラストシーンでも「花」は描かれます。
「時」の流れもこの歌詞のテーマになっているはずです。時の流れが二人を残酷に引き剥がして容赦なく進み続けているように描かれています。
「ねっこ」は「花」と「時の隔たり」を繋げるイメージとして選ばれたのだと思います。おそらく常田詩作ではタイトルは最後に付けられるのでしょう。わかりませんがいつも急所を突いてしまわないギリギリがあえて選ばれている感じがします。
時の隔たりを繋げているのが「ねっこ」であり「思い出の瓦礫に根を張ってる」ものでもあります。「花」を支え、強さの源泉でもあるでしょう。「無常」は時の流れであり、そこに根を張った「花」が咲き誇れと言われている。
また端島は炭鉱の島であり、その炭鉱が実際どんな構造であったかは知らないのですが、一般的にはエレベーターシャフトと呼ばれる立坑が下に伸び、そこから横に坑道が四方に伸びる構造になっていて、端島の場合はそのほとんどが海底の下であったはずです。
おそらくその様子が植物の根に例えられています。もちろん炭鉱は端島に住む人々にとって生活を支えると共に特別な意味を持ったものであり、まさに「項垂れたその先に根を張る」ものだったはずです。
当時は炭鉱出身者は差別されやすい存在でありましたが、炭鉱で生きた人々にとっては大切な故郷でもあるでしょう。「ねっこ」はルーツを指していて出身地の符丁でもあります。ドラマのテーマの一つはそこにある気もします。
ドラマのテーマと言えば、おそらく「出生の秘密」がその一つとしてあるのだと思われます。そこでもやはり「ねっこ」(ルーツ)が問題になるのでしょうね。
まとめ
「ねっこ」はKing Gnuの作品の中でもドラマとのシナジーがよく働いたものになるのではないでしょうか。ドラマありきの楽曲であり、楽曲ありきのドラマになっているように感じます。
歌詞解釈的には、主体を密かに入れ替えるのは裏技に近いとは思うのですが、ドラマの構成や演出とうまくマッチしているのだろうとも思います。
そこまで言うならドラマを見ろよと言われそうですけど、涙頂戴感のあるテレビドラマは苦手なんですよね。それでも調べているうちに少しは見たくなりましたかね。
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