歌詞分析の前提
本ブログの個別の記事では、歌詞分析の前提としている事柄が書いていないこともあり、いろいろと誤解が生じかねないので、一度まとめたいと思います。
歌詞は楽曲の構成要素の一つでしかなく、歌詞をどれだけ重視して製作するかはそれぞれのアーティストの考え方によります。また作詞者がメンバーとして居るか居ないかによっても聴き手側の受け止め方が変わることはあるにしても、それ自体がアーティスト性に関わるかは微妙だと考えます。
また同じアーティストの楽曲でも、歌詞の重み付けは楽曲ごとに異なることが一般的でしょうし、内容から受け止められるメッセージなどに一貫性や連続性を付けるかもそのアーティストの考えによるでしょう。
本ブログは自身の言葉で歌詞を表現しようとしているアーティストに、より価値を置いているだけであり、それが一般的な価値観であるとは考えていませんし、主張するものでもないです。
その上で、自身の言葉で表現しようとするアーティストの楽曲を評価するとしたら、歌詞の作品性のあり方を見てゆくしかないでしょうし、歌詞から読み取れるはずのメッセージをより意図通りに解釈しようとする努力は必要になるという認識です。
こうした事情により、歌詞の作品性が優れていることを高く評価して、共感できて新しさを感じるメッセージを含んだ歌詞に価値を見出すような分析になるのです。
私の歌詞の解釈能力にはまだ足りていない部分があることは認めますし、作詞家側も常に十分な伝達能力が発揮できる状況にあるとは想定しませんが、すれ違い的な評価が生まれてしまうことはある程度しかたないことだとも考えております。
問題は、歌詞の作品性をそれほど重視しないスタイルのアーティストの楽曲に対して、どれだけ歌詞に期待をして歌詞分析にあたるのが適切かが正直なところ不明であり、もう少し試行錯誤を続けさせてもらえればと感じています。
クスシキ
2025年4月リリース曲。アニメ「薬屋のひとりごと」第2シーズンオープニング
「クスシキ」はリリース後にアニメ「薬屋のひとりごと」のオープニング曲であることが明かされました。もちろん最初からタイアップがありそのために楽曲やアニメが製作されたのだと思います。
そんなこともあり、楽曲「クスシキ」の歌詞の語り手は原作の主人公である猫猫(マオマオ)を想起させるように書かれていると事前の予想がありました。
そうして今回はこの「クスシキ」の歌詞分析しようとしたのですが、いろいろと難しい壁に当たってしまったのです、それは。
- 自分が「薬屋のひとりごと」の原作やアニメに触れていないこと。
- 「クスシキ」の歌詞が支離滅裂になっているということ。
- 大森の作詞能力を測りかねているということ。
- タイアップからの影響が不明であること。
アニメとのギャップ
まず個人的には「薬屋のひとりごと」の原作やアニメには直接触れていません。ウィキペディアなどのあらすじを読んだ程度です。ただそれでも歌詞を分析することには問題ないという認識でいます。
そんなわけで歌詞がどの程度アニメとリンクしているのかは不明なのですが、おそらく楽曲側としては原作小説やアニメの作品世界を若干借りた形で制作されているのではないでしょうか。オープニング曲とは言え、完全にアニメの内容を踏まえた歌詞にする必要もないと思いますし、最近のアニメタイアップ曲はそうした位置関係であることも多いですから。
したがって基本的には「クスシキ」はアニメとは独立したミセス楽曲の一つという認識で前提で話を進めたいと考えます。
と言うのも、歌詞から読み解いたテーマやメッセージとアニメの概要から受ける印象との間に差があり、イメージが合致している部分もあるだけに、その差から感じられる違和感が大きく、解釈上の混乱が発生してしまうからです。
この違和感に関しては、ミセス側の創作性を優先したものとして解決したいわけです。
支離滅裂な歌詞
「クスシキ」の歌詞が一見、支離滅裂であることは、歌詞を読めば誰でもわかることだと信じますが、普段から歌詞を意識しないで楽曲を聴いている人や、ミセスの無条件ファンの方は、そうした指摘に対して反感を感じてしまうのではないかと恐れております。
あらかじめお断りしておきたいこととして、この記事はMrs. Green Appleや大森元貴を批判する意図はまったくありません。むしろこの楽曲は作詞家としての大森の合理性が極限まで発揮されている作品だと評価しています。
ただ「クスシキ」の歌詞の内容が支離滅裂になっていること自体は事実であり、その指摘を避けたまま分析することは無理だと考えます。ここではこの支離滅裂な歌詞からどうにか作品的価値を見いだせないかという姿勢で考察をしています。どうかご理解頂けたらと思います。
いずれにせよ「クスシキ」の歌詞の作品性が解釈の壁になりました。
大森詩作の境界問題
これまでも指摘してきたことですが、大森詩作においては、歌詞内の語り手は大森自身のような人物や仮想的な大森であることが通例になっており、そこからは離れることが難しいのが大森詩作の最大の特徴でした。
今作は歌詞の語り手として大森以外の存在を想定した上で、創造的な製作をしようとしているようにも見えます。そうであれば大森としては大きな挑戦ではあったのだろうと想像します。
ただし残念ながら、歌詞全体を読んだ時にそれが成功しているとは言い難い結果になっていると感じました。歌詞の向こうに猫猫のコスプレをした大森のイメージが透けて見えるような印象があります。つまり大森にとって自身から離れた視点から詩を書くことは相当に困難な作業なのだろうと思います。
大森詩作とタイアップとの相性の良さを見積もりにくいことが分析の壁になりました。
「奉仕だ」はどこから来たのか
個人的に「クスシキ」の歌詞で大きく違和感を感じたのは二番冒頭の「奉仕だ」です。このフレーズはその後ろの「『こうしたい』とかより」に続いている語り手の相手側のセリフとも取れなくもないのですが、素直に読むなら、語り手の意思を表現しています。
「奉仕だ」という言葉自体に問題はないのですが、このフレーズは作品世界の人物間の関係性や雰囲気を決定してしまうため、インパクトとしては大きいはずで、意図なく入るとは考えにくいと思います。
「薬屋のひとりごと」の原作はなろう小説なので、検索してみたのですが「奉仕」という言葉は通常の意味で数度使われているだけでした。コミカライズされたときかアニメ化されたタイミングで限定した意味づけがあったのかもしれませんが、それにしてもオープニング曲の歌詞に使うには不自然さを感じます。
まさかサッカーアニメなどで「シュートだ」と言うようなノリで、歌詞とアニメの演出の連動が図られたわけもなく、「奉仕だ、ワッショイ」と宮廷内で登場人物間で奉仕を競っているはずもない、とすると、大森が独自に歌詞に必要なワードとして選んだものと考えるしかないのかもしれません。
ただ歌詞内でも「奉仕だ」は異質であり、文脈的にも浮いているので、アニメの制作側からのオーダーのようなものの中にあったのかもしれませんが、いずれにせよ独特なセンスとは言えそうです。
大森の解釈力に確信を持てないことも分析を困難にしていました。
解釈困難性の複合
このように「クスシキ」は個人的に歌詞分析を困難にする要素が多かったです。きっと多くの人も歌詞の意味を考えることはどこかの時点で放棄してしまうのではないでしょうか。
歌詞は基本的にポエムなので、多くの情報は盛り込むことはできません。メッセージそのものをワンフレーズにして繰り返すことも多いです。大森詩作ではストーリー仕立てになっていることも多く、その点ではかなり欲張った作風だとは言えます。
大森詩作では最初にいろいろと盛り込んでしまって、あとで不要な部分を削る工程が入るのではないで しょうか、その結果としてフレーズが断片化しやすいのだと思います。もちろん断片化すれば文脈を追うことが困難になることは避けられません。
さらに大森詩作では相反する言葉を組み合わせて新しいイメージを作ることを常套手段にしているため、なおさら意味が掴みにくくなっています。冒頭パートの「天に」「堕ちていった」などは典型例でしょう。こうした部分は単に雰囲気を演出するためだけの目的で入っていることも多いので、普通に「天に召された」と解釈するのが本筋になると考えます。
また「クスシキ」では特に言い回しが極端に迂遠になっていて、本来簡単に表現できるはずのことが屈曲した文章になっています。
こうした作風的な都合が合わさった結果、読む側がかなり補完的に推測した解釈を強いられる結果になっていると思います。これはけして楽しい作業というわけではなく、考えられる複数の意味の中から最も穏当なものを好意的に解釈するように仕向けられる感じがします。
歌詞分析
このようにいろいろと分析上の困難はあるのですが、ここは全体のテーマやメッセージから行ってみたいと思います。
「クスシキ」のテーマは「輪廻する世界の中で貴方を想い続ける私」です。聴き手に対するメッセージのようなものは特に無いと思います。
この見立てはそれほど誤っていないと思いますが、このテーマから歌詞全体を逆に見ると随分と無駄と粗が多い歌詞には見えることも否めません。また内容的にも、この「私」が想いを伝えられないまま「ひとりの夜を歩こう」というところに落ち着いてしまうことには違和感を覚えなくもありません。
これはおそらく大森詩作における何時ものパターン「いろいろ困難や辛い日々もあったけれど、私は私のまま生きてゆきます」という宣言で終わる、をそのまま猫猫(らしき人物)で置き換えたものになっているのではないかと考えます。
ただ大森詩作のパターンを作中の人物に仮託した上で行うのは微妙に問題があるように感じます。
「薬屋のひとりごと」はミステリーとラブコメが合体したものだそうで、「名探偵コナン」とほぼ同じ構造だと勝手に理解しています。テーマ曲で工藤新一と毛利蘭が結ばれてラブラブになったように取れる歌詞や「恋愛なんかもうイヤ」みたいな内容の歌詞であったとしたら違和感がないでしょうか。
テーマ曲はミュージシャンが自由に作れるとしても、作品世界を借りるのであれば限界となる範囲があるはずです。肝心の「薬屋のひとりごと」の猫猫が恋愛要素にどの程度寄ったキャラクターなのか知らないので何とも言えないのですが、個人的に歌詞に描かれる人物とはイメージが重なりません。
もちろんここでは「クスシキ」はアニメとは独立した作品であるという前提で考えていますので、この指摘はあたらないのかもしれませんが、微妙に感じることも事実です。
この大森詩作パターンでもう一つ思うのは、あえて踏襲する必然性がなさ過ぎるということですね。歌詞の人物が「愛を喰らいたい」と感じながら「ごめんね」で「ひとりの夜を歩こう」となるのは「正直になれない」「素直に」なれないからで、言葉を「呑んで」しまうからなのですが、それは運命的な障害とは言い難いのでは、と思ってしまいます。
一応「病になった私」とあるので、それが悲恋に至った理由なのかもしれませんが、取って付けたような感じがすることは否めません。
また悲恋自体は歌のテーマとしてありふれているのですが、輪廻する世界の話で「また明日(来世)会えるからいいや」という感覚で「また想う 来世も」となるのは、あまりにも詩情がないと感じるのですがどうなのでしょうか。
語り手交代説と語り手死亡説
さて、あまり批判的なことばかり書いていても誤解されそうなので、ここで仮説を一つ提出したいと思います。
それは「語り手の交代」と「語り手の死亡」が複合しているとする仮説になります。
簡単に説明すると冒頭のパートだけ「彼奴」という言葉が出てきます。それ以後のパートはすべて「貴方」になっています。こうなっている意図を、最初のパートだけ語り手が「貴方」以降の語り手を「私」としたものだと考えます。つまり冒頭の「彼奴」というのが、以降でいう「私」ということになります。(語り手交代説)
こうすることによって、天に召された「彼奴」は実は「私」ということなります、この「私」の死により、私の想いは届かないまま悲恋となって「また想う 来世も」という話の構図として成立し得るわけです。(語り手死亡説)
また現世が極楽であるなら、天は極楽ではない場所ということになり、「天に」「堕ちてゆく」ことになるという構図にしたかったのだと思われますが、作品世界内の輪廻の構造自体が不明である読み手にとっては、このあたりをどう解釈してよいかは迷うところです。
おそらく「クスシキ」はこの輪廻の構造を前提にして、「私」と「貴方」の物語として構成しようとしているのだと考えられます。ただし、かなり難解ではあります。
「クスシキ」の歌詞は「私」は「貴方を想う」だけで、「貴方」は「居る」だけで良いという構図が美しい、という価値観がないと共感しにくいのですが、それが歌詞内だけで説明しきれていないところがあると考えます。
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