Mrs. Green Apple「クスシキ」歌詞分析

スポンサーリンク

クスシキ

2025年4月リリース曲。アニメ「薬屋のひとりごと」第2シーズンオープニング

「クスシキ」はリリース後にアニメ「薬屋のひとりごと」のオープニング曲であることが明かされました。もちろん最初からタイアップがありそのために楽曲やアニメが製作されたのでしょう。

そんなこともあり、楽曲「クスシキ」の歌詞の語り手は原作の主人公である猫猫(マオマオ)を想起させるように書かれていると事前から予想していました。

そうして今回はこの「クスシキ」の歌詞分析しようとしたのですが、いろいろと難しい壁に当たってしまったのです、それは。

  • 自分が「薬屋のひとりごと」の原作やアニメに触れていないこと。
  • 「クスシキ」の歌詞が支離滅裂になっているということ。
  • 大森の作詞能力を測りかねているということ。
  • タイアップからの影響が不明であること。
  • 大森の知識や原作への解釈力に疑いを持ってしまうこと。

アニメとのギャップ

まず個人的には「薬屋のひとりごと」の原作やアニメには直接触れていません。ウィキペディアなどのあらすじを読んだ程度です。ただそれでも歌詞を分析することには問題ないという認識でいます。

そんなわけで歌詞がどの程度アニメとリンクしているのかは不明なのですが、おそらく楽曲側としては原作小説やアニメの作品世界を若干借りた形で制作されているのではないでしょうか。オープニング曲とは言え、完全にアニメの内容を踏まえた歌詞にする必要もないと思いますし、最近のアニメタイアップ曲はそうした位置関係であることも多いですから。

したがって「クスシキ」はアニメとは独立したミセス楽曲の一つという認識で前提で話を進めたいと考えます。

と言うのも、歌詞から読み解いたテーマやメッセージとアニメの概要から受ける印象との間にかなり差があるからで、イメージが合致している部分もあるだけにその差から感じられる違和感が大きく、解釈上の混乱が発生してしまうのです。

この違和感に関しては、ミセス側の創作性を優先したものとして解決したいわけです。

支離滅裂な歌詞

「クスシキ」の歌詞が一見、支離滅裂であることは、歌詞を読めば誰でもわかることだと信じますが、普段から歌詞を意識しないで楽曲を聴いている人や、ミセスの無条件ファンの方は、そうした指摘に対して反感を感じてしまうのではないかと恐れております。

あらかじめお断りしておきたいこととして、この記事はMrs. Green Appleや大森元貴を批判する意図はまったくありません。むしろこの楽曲は作詞家としての大森の合理性が極限まで発揮されている作品だと評価しています。

ただ「クスシキ」の歌詞の内容が支離滅裂になっていること自体は事実であり、その指摘を避けたまま分析することは無理だと考えます。また単純に大森詩作をバカにしたいのであれば「クスシキ」をデタラメに作られた歌詞として片付けてしまえばいいわけで、ここではこの支離滅裂な歌詞から作品的価値を見いだせないかと考察をしています。どうかこの違いはご理解頂けたらと思います。

いずれにせよ「クスシキ」の歌詞の作品性が解釈の壁になりました。

大森詩作の限界

これまでも指摘してきたことですが、大森詩作においては、歌詞内の語り手は大森自身のような人物や仮想的な大森であることが通例であり、そこからは離れることができないのが大森詩作の最大の特徴でした。

今作は歌詞の語り手として大森以外の存在を想定して書こうとしているようにも見えます。そうであれば大森としては大きな挑戦ではあったのだろうと想像します。

ただし残念ながら歌詞、全体を読んだ時にそれが成功しているとはけして言い難い結果になっていると感じました。なんと言うか猫猫のコスプレをした大森のイメージが透けて見えるような印象があって、大森にとって自身から離れた視点から詩を書くことは相当に困難な作業なのでしょう。

これは大森の作詞能力が基本的なところでタイアップには向いていないことを意味するので、余計なことをあえて言うならば、そろそろ仕事を選ぶこともできるのでは、と思ったりもします。

大森詩作とタイアップとの相性の悪さや影響度合いの不明さも分析の壁になりました。

「奉仕だ」はどこから来たのか

個人的に「クスシキ」の歌詞で最大の違和感があるのは二番冒頭の「奉仕だ」です。このフレーズはその後ろの「『こうしたい』とかより」に続いている語り手の相手側のセリフだとも取れなくもないのですが、素直に読むなら、語り手の意思を表現しています。

「奉仕だ」という言葉自体に問題はないのですが、このフレーズは作品世界の人物間の関係性や雰囲気を決定してしまうため、インパクトとしては大きいと思います。

「薬屋のひとりごと」の原作はなろう小説なので、検索してみたのですが「奉仕」という言葉は通常の意味で数度使われているだけでした。コミカライズされたときかアニメ化されたタイミングで限定した意味づけがあったのかもしれませんが、それにしてもオープニング曲の歌詞に使うには不自然に感じます。

まさかサッカーアニメなどで「シュートだ」と言うようなノリで、歌詞とアニメの演出の連動が図られたわけもなく、「奉仕だ、ワッショイ」と宮廷内で登場人物間で奉仕を競っているはずもない、とすると、大森元貴が独自に歌詞に必要なワードとして選んだものと判断するしかないのかもしれません。

歌詞内でも「奉仕だ」は異質であり、文脈的にも浮いているので、アニメの制作側のタイアップのオーダーの中にあった可能性が高いとは思いますが、いずれにせよ独特なセンスとは言えそうです。正直なところ大森のコンテキスト解釈能力には疑問も感じている部分もないわけではなく、創作能力とはまた別の話だとは言え、信じきれないところもなくもないです。

大森の解釈力への信頼性や疑問も、歌詞の分析を困難にしていました。

解釈困難性の複合

このように「クスシキ」は歌詞分析を困難にする要素が多いのです。きっと多くの人は歌詞の意味を考えることは放棄してしまうのではないでしょうか。

歌詞は基本的にポエムなので、多くの情報は盛り込むことはできません。メッセージそのものをワンフレーズにして繰り返すことも多いです。大森詩作ではストーリー仕立てになっていることも多く、その点ではかなり欲張った作風だとは言えます。

大森詩作では最初にいろいろと盛り込んでしまって、あとで不要な部分を削る工程が入るのでしょう、その結果としてフレーズが断片化しやすいのだと思います。もちろん断片化すれば文脈を追うことが困難になることは避けられません。

さらに大森詩作では相反する言葉を組み合わせて新しいイメージを作ることを常套手段にしているため、なおさら意味が掴みにくくなっています。冒頭パートの「天に」「堕ちていった」などは典型例でしょう。こうした部分は単に雰囲気を演出するためだけの目的で入っていることも多いので、普通に「天に召された」と解釈するのが本筋になると考えます。

また「クスシキ」では特に言い回しが極端に迂遠になっていて、単純に表現できるはずのことがかなり曲折した文章になっています。

こうした作風的な都合が合わさった結果、読む側がかなり補完的に推測した解釈を強いられる結果になっていると思います。これはけして楽しい作業ではなく、考えられる複数の意味の中から最も穏当なものを好意的に解釈するように仕向けられます。

歌詞分析

このようにいろいろと分析上の困難はあるのですが、細かいところを突っ込み続けるのは個人的に辛いので、全体のテーマやメッセージからいきたいと思います。

「クスシキ」のテーマは「輪廻する世界の中で貴方を想い続ける私」です。聴き手に対するメッセージのようなものは特に無いと思います。

この見立ては誤っていないと思いますが、このテーマから歌詞全体を逆に見ると随分と無駄と粗が多い歌詞には見えます。また、この「私」が想いを伝えられないまま「ひとりの夜を歩こう」というところに落ち着いてしまうことには強い違和感を覚えます。

これは大森詩作における何時ものパターン「いろいろ困難や辛い日々もあったけれど、私は私のまま生きてゆきます」という宣言で終わる、をそのまま猫猫(らしき人物)で置き換えたものになっています。

もちろん大森がそうした人生観や死生観を持ってそれを表現することは自由ですが、それを作中の人物に仮託した上で行うのは微妙に問題があるように感じます。またそれこそが大森詩作で視点が本人を離れられない理由なのだと推察します。

「薬屋のひとりごと」はミステリーとラブコメが合体したものだそうで、「名探偵コナン」とほぼ同じ構造だと勝手に理解しています。テーマ曲で工藤新一と毛利蘭が結ばれてラブラブになったように取れる歌詞や、恋愛なんかコリゴリみたいな内容の歌詞であったとしたら違和感があると思います。

テーマ曲はミュージシャンが自由に作れるとしても、作品世界を借りるのであれば限界となる範囲があるはずです。肝心の「薬屋のひとりごと」の猫猫が恋愛要素にどの程度寄ったキャラクターなのか知らないので何とも言えないのですが、個人的に歌詞に描かれる人物とはイメージが重ならない。

この大森詩作パターンでもう一つ思うのは、踏襲する必然性がなさ過ぎるということですね。歌詞の人物が「愛を喰らいたい」と感じながら「ごめんね」で「ひとりの夜を歩こう」となるのは「正直になれない」「素直に」なれないからで、言葉を「呑んで」しまうからなのですが、それは運命的な障害とは言い難いと思ってしまいます。

一応「病になった私」とあるので、それが悲恋に至った理由なのでしょうが、取って付けたような感じがすることは否めません。

また悲恋自体は歌のテーマとしてありふれているのですが、輪廻する世界の話で「また明日(来世)会えるからいいや」という感覚で「また想う 来世も」となるのは、あまりにも詩情がないと感じるのですがどうなのでしょうか。

語り手交代説と語り手死亡説

さて、あまり批判的なことばかり書いていても誤解されそうなので、仮説を一つ提出したいと思います。

それは「語り手の交代」と「語り手の死亡」が複合しているとする仮説になります。

簡単に説明すると冒頭のパートだけ「彼奴あいつ」という言葉が出てきます。それ以後のパートはすべて「貴方あなた」です。つまり最初のパートだけ「貴方」が語り手になっていると考えます。そして「彼奴」というのがそれ以後でいう「私」ということになります。(語り手交代説)

こうすることにより、天に召された「彼奴」は「私」ということなりますから、「私」の死亡により私の想いは届かないまま悲恋となって「また想う 来世も」という話として成立し得るわけです。(語り手死亡説)

おそらく「クスシキ」はこの構成、もしくは類する形になるように企図されて作られているのでしょう。ただこれはかなり好意的に解釈する人でないと伝わらないでしょうし、伝わらないという意味で失敗に終わった構想と言って良いと思います。

追記:余談

さすがに大森の心理分析までになってしまっては余計なお世話すぎると思うので、余談ということで。

ここで言及している大森詩作のパターン「いろいろ困難や辛い日々があったけれど、私は私のままで生きてゆきます、という宣言で終わる」ですけども、いくつか他の歌詞を読み返してみても、形は変えなからもたしかに存在はしていると思うのです。

これは主義主張や歌のメッセージというよりも、生き方の問題ですね。これが作品に繰り返し現れるということは、これは大森の実際の「生き方」であり、たとえ創作の上でも譲れない部分なのだろうと思います。

もちろん誰かの「生き方」を否定するようなことはできませんし、必ずしも共感しなくてはならないものでもありませんが、個人的には素直に首肯できる部分ばかりではないです。ただミセスが大勢の人たちに支持されているという現実を前にすると、そこの認識のギャップは世代から来ているのかなと、狼狽える気持ちにならなくもありません。

少なくとも大森詩作のパターンの部分で言うと、自己肯定や自己の承認につながるという意味では良いとは思うのです、仮にそれが自己愛や利己的な動機から発露したものだとしても自己の範囲で収まることであればかまわないとも思います。

ただそれが外の世界側と関わることについては、まず自己の限定化になってしまう恐れがあると危惧します。自分の可能性に対して、あるいは自分の成長に対して枠を設けてしまうわけです。また社会の中での責任の放棄、あるいは問題解決や努力の放棄、他からの干渉に抗うことの放棄などにつながる可能性もあるのではと考えてしまいます。

たしかに大袈裟に考え過ぎなのかもしれませんが、歌詞の中でさえ「私」は「貴方を想う」だけで、「貴方」は「居る」だけで良いという話にしかなっていないわけですよね。運命に抗わない構図が美しい場合もあるでしょうが、輪廻の中で未来永劫それが変わらないとするなら、それはたしかに「極楽」ではない。

ミセスの恋愛曲で頷ける日は当分なさそうな気がします。

狩生

  ■ セミリタイヤブロガー ■
  ■ 減速ライフを実践中! ■
  ■ のんびり生きましょう ■

読書 / 古代史研究 / ウォーキング / ダウンシフター / ドロー系絵描き / AppSheet / 脱消費主義 / 英文小説

著者をフォローする
歌詞分析
スポンサーリンク
著者をフォローする

コメント

タイトルとURLをコピーしました