千両役者
King Gnu「千両役者」2020年12月リリース曲、NTTドコモ「5G」のCMソング。
King Gnuの楽曲「千両役者」はそのタイトルが示す通り、人生を一つの壮大な「出鱈目な劇」として捉え、その舞台の上で繰り広げられる人間の業、狂気、そして剥き出しの生のエネルギーを強烈な言葉で描き出した作品でしょう。
現代社会の不条理さや虚無感を背景に、破滅的な状況すらも演じきろうとする「千両役者」の姿は、聴き手に鮮烈な印象と、複雑な感情を喚起させます。
基本モチーフの変化
この楽曲は構成がシンプルというより、かなり変則になっていて、冒頭をAパートとすると、サビ、ラップ2サビなどを挟んで再びAパートで終わるというものになっています。また曲も不安定なメロディでもあり、疾走感や開放感があまり感じられないまま終わり、ボーカルにも強めのエフェクトがかかっています。
これをどう受け取るかは様々あり得るでしょうが、個人的には楽曲の基本的なところで大衆ウケの否定や媚びない姿勢、消費されることへの拒絶が意識的に明確にされているように感じます。
個人的にはKing Gnuはそこまで反骨的なロックバンドではないという認識ですが、少なくとも彼らが行きたい方向というものはあり、「千両役者」ではそちらの可能性を試されているような気がします。
「三文小説/千両役者」はマキシシングル曲で、タイトルも対称的に位置づけられています。またKing Gnuの楽曲リリースは長期間の間を置くことが多いようなのですが、同年のアルバム「CEREMONY」からでも11ヶ月ぶりのリリースとなっています。
もちろんこれはアーティストとしての活動形態がそうであるからなのでしょうが、商業アーティストの経営としては何かしらのプレッシャーやバンド内の不和などのトラブル的要因の存在を想像させなくもありません。
もう一つ、三文小説は創作性や娯楽性の高い歌詞になっていますが、一方で「千両役者」は聴き手を寄せ付けない印象があり、この2つは対称的というよりKing Gnuの表現性において対極的な位置関係にあると言えます。
この2つ曲がカップリングされた意図がどこにあったのかは少し気になるところです。
重ならないモチーフ
Aパート前半では、まず人生を舞台上の劇に喩えて、その人生や社会の構造そのものが不条理で、計画通りには進まず、傷つきながらも同じ場所をぐるぐると回っているかのような閉塞感があることが提示されます。
続く歌詞でも、安定を欠き、常に危険と隣り合わせの不安定な生の実相を象徴して、まるで危うい綱渡りのように、一歩間違えれば奈落の底へ落ちてしまう。死ねばそれまで、という冷徹な現実が支配している様が描かれます。
Aパート後半では、男女の感情や性的関係の交錯も、結局は「茶番劇」でしかなく、やはり死んでしまえばそれまで、という現実を描きながら、この「出鱈目な劇」を演じきることの矜持や覚悟が示されてゆきます。破滅(カタストロフィ)しているのは世界と自身であり、業(カルマ)を宿命とし、見世物(喜劇)を演じきると開き直れば、乗り越えた先で、主役として「千両役者」は「歌舞く」ことができる、と言いたいのでしょう。
Bパートはその「千両役者」が今際の際に見る風景を描いており、続くサビは、
好き勝手放題の商売
後悔なんて面倒臭いや
青臭い野暮臭い生涯を
ただ生きるための
抗体を頂戴合いの手の如し口を出し
King Gnu ”千両役者“
立場悪くなりゃ「お先に」
無意識に串刺し
ど阿呆には自覚は無し
となっていますが、ここまでの歌詞の内容とはかなりトーンや内容が異なっています。
まず「千両役者」は「歌舞く」わけですが、それが「好き勝手放題の商売」をしているところからは程遠いということ、少なくとも己を省みることを放棄し、ただ生きようとしている存在ではなく、むしろひと花咲かせられるなら死んで本望なのが「千両役者」です。どうしてこのような齟齬が放置されることになっているのか。
これの穿った解釈をするならば、好き勝手な活動をしているKing Gnu自身とそこに口を出してくる関係者との関係、またリリース時期は疫病による自粛期間と重なる時期でもあったような気がしますけれど、そこでの混乱などが織り交ぜられている歌詞であるようにも読めます。
つまりこれは「千両役者」の歌詞の中に、常田の何かしらの本音の部分が挿入された結果なのではないか。仮にサビ部分の歌詞の意図を正確に読み取ることはできないのだとしても、歌詞冒頭からの文脈にはまったく沿っていないと思います。
もちろんそうした食い違いを含めての「出鱈目な劇」なのかもしれませんが、この楽曲はいろいろな意味で不整合な形に構成されていて、あまり統一的美しさや完成度が感じられません。
おそらく「千両役者」は、King Gnuの基本モチーフの一つであった「刹那的に生きることへの憧れ」の集大成的なコンセプトで制作されたのではないでしょうか。そしてそれは半分は成功し、半分は完遂されることなく終わってしまったのだと思います。
サビ部分ではこの刹那的に生きるということが打ち出されているわけですが、それは「出鱈目な劇」の中で業を受け入れて生を全うしようとする「千両役者」と重なりそうで重ならないもどかしさがある。
実はこの先の常田が「刹那的に生きる」モチーフを存続させているのか、ここで放棄したのかは知らないのですが、「千両役者」はそれに代わるKing Gnuの新しいモチーフになり得るだけの魅力や厚みのあるものに見えます。
ただ「千両役者」のモチーフを商業的なアーティストが徒に弄んでしまうには、空虚さが無様に目立ってしまうことも事実なので、難しいことだろうなとは思います。
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