天国
2025年05月リリース曲、映画「#真相をお話しします」主題歌。
楽曲についてはここでは言及しないつもりなのですが、なんでしょうねえ「ダーリン」を迷走させるとこんな感じになりそうだなと漠然と思ってしまいました。
歌詞分析:破られたパターン
「天国」は映画「#真相をお話しします」の主題歌です。この映画は大森自身が主演しているそうで、楽曲と映画との関連が予想されますし、歌詞への映画からの影響も大きいのでしょうが、材料もないので、この記事では特に考慮しません。とりあえず楽曲のテーマを見定めるところからはじめたいと思います。
「天国」の歌詞は最近のミセス楽曲の歌詞に比べると意味を取りやすいものになっていると思います。しかし、それも前半までの話で、転調するあたりから次第に歌詞の内容はかなり怪しい感じになってゆきます。大森詩作では意味が取れないフレーズを作意の一部として使用するのが通例で、このあたりも意図してそうなっているのでしょう。
「天国」の歌詞は、最後のフレーズの「今度はちゃんと手を握るからね」がキーポイントになっていて、全体の歌詞はすべてここに繋げるための構成になっています。また明らかなこととして良いのだと思いますが、語り手の「死」が最後に訪れています。
歌詞の語り手は最後に手を握る相手を「君」であると認識しているようですが、おそらくそれは「天使」であるはずで、楽曲の終わり方なども「死」の瞬間を意識した上で演出されています。
つまり「天国」の歌詞の中心テーマは「死」なんですね。これはテーマの1つということではなくてメインのテーマのはずです。どういう「死」なのか、どのような過程を経て「死」になったのかなどは残る疑問だとしても、テーマとして「死」が選ばれていること自体は間違いないでしょう。
これまで大森詩作のパターンとして「いろいろ辛いことや困難があったけれど、私は私のままで生きてゆきます、という宣言で終わる」の存在をミセスの楽曲の歌詞分析で書いてきました。「天国」のテーマが「死」であるのなら、今回はこのパターンからは離脱していると考えて良いでしょう。
「天国」の歌詞は今から自身の死に臨もうとする「私」が語り手になっています。詩作パターンの「生きてゆきます」が「死にます」という形に変換されています。また「自己肯定」から「自己否定」になっていることも見過ごせない事実でしょう。
このパターン離脱自体はミセスのあり方が転換点に差し掛かっていることのサインの一つであると思います。またこのテーマはミセスの営業戦略などから想起されたとは考えにくいので、これは大森自身のアーティストとしての方向性から来ており、大森の本来のアーティスト性としてはこちらが、より表現したいテーマに近いのではないかと想像しています。
隠蔽される「死」と死因
最後に語り手の「死」が描かれるという趣旨であるということから逆算して全体を見ると、語り手が「貴方の事が許せない」のは、最愛の存在であった「貴方」がいなくなっていることに対しての嘆きや絶望を表現していると取るしかありません。
「天国」の歌詞で、最も気になってしまうのは「貴方」が居なくなっている「理由」が明かされないことです。その一方で「貴方」は文脈的には亡くなっているように表現されています。要するに「貴方」の死は直接には言及されません。また最後の語り手自身の「死」についても、直接的な表現が極力避けられるように不明確になっています。
また「貴方」が亡くなっているものとして、「貴方」と「語り手」の両方の死に至った理由と原因が示されません。理由や原因というのは亡くなった事情と特に死因、「病死」等なのか「自死」なのかという点です。これが明示される必要がないとするのは、その通りではあるにしても読み手の疎外感は残ります。
つまり「天国」の歌詞は「死」を扱っているにしても、ずいぶんとあやふやなスタンスのまま扱っています。端的に言えば腰が引けている感じがありますし、悪く取るなら「人の死」を題材にして弄んでいるようにも見えなくもありません。
もちろんこのあたりは読み手に与えられた想像の余地ではあるのでしょうし、作意として「死」を暗示するところまでで止めている部分もあるのでしょう。
ただ、そこに「死」が存在しているのかもわからず、その原因も伝えられないまま、男が「どうすればいい?」と喚いていて、死のうとしている状況や理由もよくわからず、死んだかどうだかもわからないまま終わる物語を、聴き手はどう受け止めれば正解なのかはまあわからない。
軽量化された説
ここからは「天国」の歌詞がこうなっている理由のほうの仮説をいくつか立ててみたいと思います。
一つは、おそらく同時期に作られたであろう「クスシキ」の歌詞と何らかの形で関連しているという仮説です。
考えてみれば「クスシキ」においても「語り手の死」が出てきました(語り手死亡説)。さらに「天国」にも「貴方」「あなた」に加えて「君」が出てきます。さすがにこれらはすべて同じ人物を指すものと考えられますが、呼び方が都度変わるのは何故なのでしょうか。
いまのところ「クスシキ」と具体的にどう関連しているかまでは指摘できませんが、あってもおかしくはないような気もします。双方に共通しているのは、「語り手の死亡」が明確に表現されておらず、ボカされているという点にあります。つまり「死」そのものをあからさまに描いてはいないことが共通しています。
こうなっている原因はおそらく「死」が大人気アーティストが歌う楽曲のテーマとしては「重すぎる」からなのでしょう。「ミセスの楽曲の薄さはどこからくるのか」でも書きましたが、ミセスは重いテーマの楽曲を浅い内容にして「薄く」聞こえるようにしてきたと考えます。
特に説得力もないまま「生きてゆきます」と言うから「薄い」印象が残るわけで、「重い」テーマに正面から「死にます」という歌詞ではそれは単純に「重すぎる」のでしょう。
また「死にます」という歌詞は大森がそう歌いたいからそうなっているはずで、ミセスがこう歌うことが求められているとか、必然性などはありません。むしろミセスのこれまで同様の「生きてゆきます」というところを期待していた聴き手にとっては酷い裏切りにはなっていないのかを心配してしまいます。
ただ「天国」は間違いなく「死」が描かれたはずです。そうでなければ「天国」というタイトルにならないからです。そして現状の歌詞は、その制作の過程で「死」が隠蔽、もしくは軽量化されたのではないか、というのがもう一つの仮説になります(軽量化説)。
まず「天国」は語り手の「死」が最後にあるほうが自然に見える構成になっていますが、実際の歌詞の表現としては「死」そのものはかなりボカされた表現になっています。またこれが軽量化された結果であるとして、「もともとの歌詞」のようなものを想定するなら、そこには語り手の「自死」を暗示する言葉のようなものがあったと想像するほうが自然に感じます。
いずれにしても「天国」の歌詞の最後は「今度はちゃんと手を握るからね」となっていますが「今度は」というからには前があったということです。つまり文脈的には「自死」への試みのことを言っているように聞こえます。(ここは「自死」であるほうが作品性としては高いと感じます:個人的感覚)
もちろんエンタメのアーティストにとって「自死」は扱いづらいテーマになるでしょうし、単なる「死」よりもさらに難しいテーマになるでしょう。そうであるからこそ軽量化があった蓋然性も高いと考えられます。
大森詩作は死生観や人生観が常に描かれます。つまりミセス曲に現れる「生きてゆきます」という宣言というのは「生」か「死」かの選択の結果であるわけです。視野の中に「死」が常にあるという状況から表現するからこそ死生観を常に描くことになっている。
個人的な感覚ということにしておきますが、ミセス曲で「生きる歓び」「生きている実感」が描かれていると感じたことは少ないような気がしますし、仮に表面上そう描かれていたとしても、そこに根拠が乏しいために共感しにくかったように思います。
また歌詞にある「生きてゆきます」という言葉の割に「生」そのものへの執着や、生きる動機となるものがどこまでも示されない感じも常にありました。
こうしたことは、大森が本当に描きたかった対象は「死」のほうである、と考えればいろいろと辻褄が合うのではないでしょうか。
「死」というモチーフは、エンタメとしてのコンテンツを作ろうとしているミュージシャンにとっては扱いづらいテーマであるとしても、アーティスト性を高く持とうとする主体には惹かれやすいテーマでもあると思います。ひとつの物語を完結させようと思えば「死」によって完成させることが最も美しく見えるからです。
つまり何を言いたいかといえば、大森はこれまでずっと「死」を描きたかったのだけれども、主に営業的な理由からそこは封印をし続けており、「生きてゆきます」という方向に表現を捻じ曲げてきたという実態がミセス楽曲の本質にはあるのではないか、という仮説です(捻じ曲げ説)。
「花」に隠蔽される「死」
軽量化説の話に戻りますが、「天国」の歌詞にはなぜか「花」のモチーフが入っています。これは軽量化があった痕跡なのではないかと感じました。「花」自体は「死」を飾るものの象徴として一般的です。身の回りでも、墓前などの「死」にまつわるところには常に花が飾られています。
歌詞の「花」は「摘まれ」ても「腐っても」「飾られ」ますし、死しても「香りを」放って「死」が纏う陰鬱さを軽減させています。MVでもまるでコントのオチのように「花」が扱われていますが、この「花」は歌詞で「花」が「死」の重さをカバーする位置に置かれたため、それがMVでも再利用されたということなのではないでしょうか。
衝撃の結末なんて言われていますけど、あの演出に至ったのはどういう経緯でそうなったと想像するでしょうか。結末がああでなければ作品のイメージはかなり変わっていたとは感じないでしょうか。
たとえば「死」の重さを「花」で飾ってしまおうとか、じつは「花」の儚さを描いていることにしてしまおう、という発想から来ているとしたら、それは歌詞の軽量化というより「死」の矮小化になってしまうと思います。
別にMVを否定したいわけではありませんが「花」の演出がどういうところから出てきたかによっては「天国」の表現として大きな意味を持ってしまう可能性があるため、どうしてそうしなくてはならなかったのか、という疑問のほうが気になってしまいます。
整理するとMVの演出は「花」自体は歌詞から来たはずです。歌詞の「花」はMVの演出には沿っておらず、せいぜい登場人物の分身のように表現されているだけです。MVにはMVの演出があっても良いとは思いますが、「天国」の楽曲の作品性からすると主張しすぎているようには見えます。
軽量化の実態はプロデュースのバランス調整や楽曲制作における協力体制の結果でもあるのでしょうけれども、ミセスに関してはどこかに認識のズレがあると感じることが多いですね。
また軽量化の結果として、「天国」の歌詞では共感されること自体が拒否される結果になっているため、歌詞の読み手としては歌詞後半は置いてゆかれてしまいます。こうしたことなどが大森自身の当初の目論見とは少し違っているのではないかという疑念、が軽量化説の内容になります。
たしかに死に臨もうとしている男がそれほど共感性に配慮しているわけもないですし、「死」への決意の演出に合理性ばかりで表現できるわけもないでしょう。そうしたことを考えると「死」をリアルに描くことは想像するよりずっと困難な作業ではあるのでしょう。だとしたらどうしてそこを選ぶのかという最初の疑問に戻ってしまうわけですが。
布団万能説
いちおう語り手の視点が動かないという点についても指摘したいと思います。これが詩作において本当に問題となっていることは、歌詞に他者が出てこない原因になっているということでしょう。
「天国」の歌詞でも「私」と「貴方」しか出てきませんが、「あなた」のほうはどんな存在なのかまったくわかりませんし、具体的な造形もされていない感じがします。ほとんど愛猫についてでも言っているのかと思うぐらいです。
他者が出ないと物語として展開しないし、広がらないので、視点が動かないまま視野が狭い印象が強くなり、内容が抽象的表現が多くなって妄想的に感じられてしまう結果になっていると思います。大森がここからも離脱できることがあるのかわかりませんけど、依然として大森詩作の喫緊の課題のままであると言える気がします。
歌詞を演出として見ると「天国」の歌詞は落差が表現されている部分が見えます。冒頭の「許せない」の部分などがそうですが、「お日様を浴びた布団に 包まる健気な君が」のあの頃は「天国」より極楽っぽく描かれていながら、それが失われた歌詞後半は錯乱してしまったような印象になっています。
このあたりは語り手の不安定さが上手く表現されているので、これは最後に「自死」を予感させるための工夫だと考えます。つまり大森としては「死」を本気で描こうとしているはずなのですが、大森自身の(あるいは外部の)軽量化圧力によってコントのようになってしまっているのが「天国」なのではないかと思ったりもします。
それにしても「ダーリン」などでも出てくる大森の「布団への絶大な信頼」はどこから来ているんでしょうね。大森布団フェチ説でも立てたほうがいいのかと思うほどですが、おそらく大森の中のどこかで「天国=布団」という図式があるんでしょうね。
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