ちょんまげ志向とちょんまげ理論
髷は近世にかけての日本人の伝統的な髪型ですが、その小型のものが明治時代に丁髷(ちょんまげ)と言われるようになったそうです。
髷の種類は多様にあり、武士から町人まで競うように様々な髷を結っていました。
当時の人々がどのような理由、意図を持って髷を結っていたのかは、実際には不明な部分が多いそうです。
しかし、その時代の社会では髷は自然な髪型であったことは事実でしょう。また周囲の人々が行っていたのですから、特に疑問も持たずにそれぞれの人も髷を結っていたわけです。
髷は正装であり、立派な髷はその人物の社会的地位の高さを示すサインでもあったと言われています。
すると髷社会において、社会的地位を誇示したければ、立派な(大きさ?カタチ?色艶?なのかはわかりませんが)髷を結うことを選択しなくてはなりません。
みんなから、「あの人のちょんまげは立派だ、すごい」と思われたいわけですね。
このような志向が成立する前提には、
- 他の誰かの立派なちょんまげを「すごい」と自分が評価する
- 立派なちょんまげを持つ者は、「すごい」と他者から評価されるだろう、と考える
- だから自分も立派なちょんまげを持ちたい
と言うような、段階的で、しかも相互に循環した構造を持った価値観の成立がなくてはいけません。
こうした構造を持った、他者に自分の価値観の鏡像を期待して、自身の価値感の正当性を補強してゆく心情を「ちょんまげ志向」として定義します。
そして社会の構成員の「ちょんまげ志向」によって、社会的な価値観の変化や風俗の進展現象が起こっているという仮説を「ちょんまげ理論」と呼ぶことにしましょう。
あなたの中のちょんまげ志向
明治に入って断髪令が出ると、髷社会を支えていた共有認識はあっさり崩れ去ってしまうことになります。
現在では、隣人がいかに立派なちょんまげを持っていようと「すごい」とは思わないでしょう。
もちろん、ちょんまげ自体には伝統文化としての価値が社会の中で認められているでしょう。
しかし個人の立場から見た場合、ちょんまげには本質的な価値があまりなかったという評価にならざるを得ません。
これは現在の価値観で判断してそうだ、というだけではなく、当時の人々の幸福度へのベネフィットから見ても価値が低かったはずだということです。
さて、問題は現在においても、ちょんまげ理論で言う「ちょんまげとなるようなもの」が存在しているのではないかということです。
いわゆる地位財と呼ばれるものがあります。
所得や財産、社会的地位、高級品などの周囲との比較によって満足を得る財のことを言います。
幸福に対して寄与する部分を本質的な価値とするならば、こうした地位財には「ちょんまげ」によって上乗せされている部分が大きいのです。
自分が高級車に価値を認める → 他人も高級車に価値を認めるはず → 高級車が欲しい
このちょんまげ理論のフローに違和感を感じるでしょうか。
ちょんまげを捨てる
地位財とされる品々の売り文句には、たいていの場合、ちょんまげ理論によって説明しうる再帰的な価値の増幅構造があります。
もちろん地位財にも本質的な価値は少なからず存在するわけですが、それ以外のちょんまげとなっている部分は幸福度への寄与度が極端に低いはずです。
髷社会において髷を捨てるのはかなり困難なことだったでしょう。
現在においても、現在のちょんまげを捨てるのはそう簡単な話ではないかもしれません。
ちょんまげを捨てるためには、
- 自分の中のちょんまげ志向を自覚する
- ちょんまげ理論の構造が周囲を支配していることを理解する
という2段階を踏む必要があります。
ちょんまげ理論の構造を支えているのは空気と同調です。そして現代社会を支えている支柱でもある集団への帰属意識もあります。
こうしたものを打ち破ることは、かつてはほとんど不可能なことでした。
ところが、現在は個人が集団に直接帰属している意識はかなり低くなっているでしょう。孤立していると言えるぐらいです。
そして常に集団の中の一人として振る舞うことが、必ずしも求められているわけでもありません。
ですから、ちょんまげを捨てるためのハードルはかなり下がっているのが現状であると思います。
少しの勇気があれば、ちょんまげを捨てて、自分の髪を自分で結うことができるのではないでしょうか。
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