幸福資本家になろう ダウシフトの果実

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幸福資本の充実を生活向上の基本にしていきましょう

ダウンシフト生活というのは、自分の収入だけではなく、周囲のモノや心情的なシガラミなど、いろいろなものを切り捨てていくことで、本当にやりたいことだけを残して身軽でラクに生きてゆくことです。

そのためには、自分が本当に必要とするものと、必要としないものを厳しく区別してゆかなくてはなりません。

切り詰めた生活資源では、自分が必要としないものにまで時間やお金などを多く割り当てることはできないからです。

自分にとって何が必要で何が必要でないのか、あるいは既に切り捨てたものの中に本当は必要だったものがなかったのか、などと迷うことも多くあります。

しかし次第に、自分が何に本当に価値を感じているのか、どれくらいそれを必要としているのか、というような主観的なところに価値を見出すようになってくるのです。

つまりダウンシフターは主観的な価値に関してきわめて自覚的な生き方と言えるでしょう。

価値とは何か

「価値」って何でしょうか、と問われたら、普通は金銭的な価値から考えるでしょう。

たしかにお金は価値を測るためのわかりやすい指標ではあります。わたしたちはお金を基準に価値を考えることに慣れてしまって、もはやそのことに疑問を感じてはいません。

しかし、金銭で全ての価値を測ることが本当にできるのでしょうか。

原価と付加価値

わたしたちの身の回りにある値札の付いたものを考えてみてください。この価格は原価と利益に分割できます。

原価は仕入れ値であったり、材料費であったり、ものによって税金や経費であったりします。この原価で仕入れた素材に、利益の源泉となる付加価値を加えて生産されたものが市場価格というわけです。

リンゴの芯はあるか

例えば、市場でオバさんがリンゴを1個100円で売っていたとします。このリンゴはオバさんの家の農地から今朝採ったものです。原価がゼロだとすると、リンゴが一つ売れるたびにオバさんは100円の利益を得て、リンゴには一個100円分の付加価値が付けられたことになります。

ここで何故かオバさんが一個あたりの原価についてうるさく主張しはじめます。市場にリンゴを運んで来るまでのガソリン代10円とリンゴの木の肥料代に10円もかかっているんだと。

そうだとすると20円の原価と80円の付加価値になります。

では一つ遡って10円のガソリン代はどうかと言えば、仕入れ値8円の原価とガソリン店の付加価値2円に分割されます。

このようにして原価をどんどん遡ってゆくと、精製コストや移送コスト、採掘コストなどの原価が現れ、そのつど付加価値と原価に分割されてゆきます。

こうして最終的な原価として原油代まで行き着いたとしましょう、原油の代わりに油田にお金を埋めるわけではありませんね、原油代を受け取る人は油田の採掘権を持っているだけです。採掘権による利益はほぼそのまま付加価値と言ってよいでしょう。

肥料に関しても同様に全て付加価値になるところまで遡れます。きっと窒素やリン鉱石の鉱山の採掘権などに行き着くのでしょう。

するとどうなるかと言えば、リンゴの価格は全て誰かが生産した付加価値の総額になっていることになります。

逆に言うと、価格から付加価値とされる部分を全て取り去ると、あとに残るものは何もないということでもあります。

経済学は金銭的な価値ばかりを扱う学問ではないのですが、マクロ経済学で言う貨幣価値は貨幣によって説明される価値ということになります。

金銭的な価値の限界

付加価値の定義は場合によって変わることも多いです、基本的には生産の過程などで施された加工などを言い、人や企業の行動が生み出した価値のことだと考えればよいでしょう。

国内で生み出された付加価値の総和がGDPです。大規模な経済であっても、そこに表示される数値は国内の人と企業が生産した金銭的な価値を表します。

またGDPは国内の総所得でもありますから、わたしたちが得ている所得はわたしたち自身が生み出した価値そのものでもあるわけです。

つまり世の中で金銭的な価値として表されている部分というのは、人が生産した市場的な価値だけで構成されており、その価値もまた金銭によって計量されているわけです。

なんだか当たり前のことを言っていると思われるでしょうか?

例えば、モノの値段が付加価値だけで構成されているということは、天然資源や農作物や家畜などがそれ自体で生み出した価値などは、そこには入っていないのです。

もちろん原油やリンゴや仔牛なども市場価値を持ちますし、金銭的な価値がないわけではありません。

つまり経済を離れた部分、言い換えると金銭で測れていない価値は一般に想像されるよりも多いということ、また金銭でしか価値を測れない人には見えない価値も多いということなのです。

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主観的な価値に目覚めよう

ここで、金銭的に測ったものとは別の価値として、主観的な価値を考えてみましょう。

金銭的な価値は貨幣で測れるわけですし、経済社会において共有された価値観ですから十分に客観的であると言えるでしょう。では主観的な価値とはどういうものになるでしょうか。

主観的な価値の特徴

主観的な価値には金銭的な価値に比べて以下の特徴があります。

  • 属人的である
  • 複合的で階層的である
  • 質的である

こうしてみると主観的な価値は理解しづらいもののようにも見えます。しかしそのようなことはありません、なぜなら主観的な価値は誰でも持っているものだからです。むしろ金銭的な価値のほうが直感的ではないところがあります。

属人的である

まず属人的というのは、主観的な価値は個人の価値観によってその内容が大きく変わるということです。

もちろん価値の内容は、欲求や愛情といった人間の性向を大きく越えるものにはならないでしょう。

複合的で階層的である

主観的な価値は、ある人物から見た価値であるわけですが、金銭的な価値のようにモノに対して個々に単純な評価をしてゆくわけではありません。

評価の対象はモノの総体に対してであり、これを様々な角度から見た複数の価値が入り混じりつつ連携し、複合した形であらわされます。また、これらの価値は並列に接続されるのではなく階層的な関係を形成します。

具体的にリンゴの場合を見てみましょう。

主観的な価値では、特定のリンゴだけを評価することはあまりなく、基本はまず一般的な食べ物としての価値をみとめるでしょう。

この同層には、リンゴを売ってくれたオバさんや一緒に食べる家族など社会的関係の一部としての価値などがあります。

これらの上層にはリンゴを味わうことができる喜びの価値があり、独特の味や風味、食感などの性質方向の価値、好みや栄養素としてなどの付帯的な価値などがさらに上に接続しているでしょう。

下層には、食事などをする生活環境を構成するモノとしての価値、あるいはリンゴを実らせた自然環境の存在に対する価値などがあります。

こうした階層は下層から積み上がっていて、上層の価値は下層の価値を前提にしながら成立しています。

主観的な価値の最下層には常に「生きてここにあることの価値」があります。主観ですから自分が生きていなければ全ての価値はないのと同じというわけです。

質的である

金銭的な価値ではモノには個別の量的な価格が付いていましたが、主観的な価値では特定の品々に明確な価値の定量化は行いません。そもそも価値を測る量的な尺度になるものがありません。

主観的な価値の尺度となるのはその質であるでしょう。主観的な価値を構成している個別の価値の質もあるでしょうが、複合する価値の接続関係や階層構造の堅牢性、厚みなどがあれば主観的な価値が上がったと評価して良いのだと思います。

幸福資本

幸福の定義は様々でしょうが、価値をどう考えるかという観点から見るなら、「幸福」は「主観的な価値」の充実によって実現されると言って良いでしょう。

また主観的な価値は量的には表しにくいので「資産」としてよりも「資本」として考えたほうが適当ではないかと考えます。そうすると幸福資本の充実、つまりは主観的な価値の質の向上こそが人の幸福に資するということになります。

(幸福資本というと、橘玲氏の「幸福の資本論」を思い出します。この本も悪くはないものでしたが、今回の内容とはあまり関係はありません。)

主観的な価値の質を上げるためには、主観的な価値の体系をきちんと自分のなかで構築した上で、その構造を理解し一つ一つの価値のあり方を認めてゆく必要があります。

これはダウンシフターが日々行っている、自分の必要となるものを見極める作業とほとんど同じことです。

幸福資産の考え方の利点は、主観的な価値は主観的であるがゆえに意識的にコントロールする余地が僅かながらあるということです。

金銭的な価値はいくら念じても数字は変わりませんが、主観的な価値は自身の考え方を少し改めるだけでダイナミックな変化が起こせるのです。

主観的な価値に目覚めて、幸福資本を充実させてみませんか。

狩生

  ■ フリーダウンシフター ■
  ■ 減速ライフを実践中! ■
  ■ のんびり生きましょう ■

読書 / 英語小説 / 古代史研究 / ドロー系 / ウォーキング / python / 脱消費主義 / 新米ブロガー

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ダウンシフト
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